『ほめない子育て』(2)

ほめない子育て―自分が大好きといえる子に (ヤングママ・パパの「いきいき」子ども学シリーズ)

ほめない子育て―自分が大好きといえる子に (ヤングママ・パパの「いきいき」子ども学シリーズ)

(1)のつづき

 私も少々がっかりきたが、ただ、本書については格別に評価できると私が感じている点がひとつあって(前エントリから、身の程知らずにも、繰り返し、『ほめない子育て』をほめたり、「がっかりきた」だの言って、すみません)、むしろ、「ほめない」というところではなく、そちらの点において、是非この良書をたくさんの方々にお薦めしたい気分になった。

 それというのも、この本で汐見さんは、昔の子育て環境から現在の子育て環境への変遷についても、一般向けの大変分かりやすい言葉でもって論じてくれていて、それがなかなか新鮮な議論となっているのだ。要約すると、それはつまり、「核家族化」と「少子化」と「子どもが自由に遊べる場所の減少」が、母子の関係や子どもの自己肯定感・自己受容感に多大な影響を与えているという説なのである。

 昔は、大人のいない場所で、近所の子どもたちがほぼ連日、集まってきては、子どもの世界の中で子どもが自由に親の評価を気にすることなくいろんな挑戦をできる環境があった。また、その中で、年長の子が年少の子の面倒を見るようなスタイルで、集団のルールを身につけていくような機会もあった。

 しかし、現代に至っては、大人抜きで子どもだけが集まって遊べるような場所はほとんどなくなり、それどころか、母一人子一人で過ごさなくてはいけない時間が一日の大部分を占めているようなケースも増えてきている。そうなると、昔は意識しなくとも子どもが自然に身に着けてきたことを家庭や教育機関で意図的に身につけさせるようなことをしなくてはいけなくなるし、子どもはいつも一緒にいる母の感情を四六時中気にかけていなくてはいけなくなる。もし母に愛想をつかされたとしたら、もう他の親族や友だちに助けを求めることは最初からできなくなっているわけだから、母の感情を損ねることは(大袈裟でなく)子どもにとって自分の生命にかかわる大問題となっている。ゆえに、子どもは母の評価をとてつもなく気にかけるようになっているというのである。

 汐見さんは、「昔の親はそんなに上手に子育てをしていたわけではないだろうが、地域社会の影響力が大きかったので、個々の家庭の育て方に多少の差があったとしても、結果的に、それぞれの子どもは平準化されていた。しかし、現在に至っては、親の育て方が子どもの一生に与える影響が大きくなり、ダイレクトに子どもの一生を決めてしまう確率がうんと高くなってきた。そんなプレッシャーを母親が受けたら、育児ノイローゼになるのも無理はない」と、今どきの母親を擁護する議論も展開する。

 もしこの分析が一般に流通し出したら、世の母親たちはずいぶん救われることと思う。「上手に子育てできない」と自分を責めている母親にとっては、これはそんな個人の能力の問題ではなく(昔は個々の育て方がそれほど子どもにダイレクトに反映されることはなかったわけだから)、社会のあり方の変化により、自分がこんなに苦労しなくてはいけなくなっているのだ…という認識を持てるほうが、対峙している問題が明確になり、良い解決策が見つかるのではないか?

 ただ、今のところ汐見さんは「放し飼い」ということを処方箋として提唱しておられるが、果たしてそれだけで今の子育てのしんどさや子どもを過剰に評価し続けざるを得ない現状を解決できるのかは甚だ疑問だ。多少は、良い方向に向かうのかもしれないけれど、子どもにとって害になることもありそうな気がしないでもないので、多角的な検証がない限り、私は積極的に大勢の親子へお薦めしていく気がしない。また、父親と母親で、基本的な子育ての方針が同意できているならば、細々とした日常の「子どもがこれをやっていいか?悪いか?」ということに関しての意見の相違はむしろあったほうが、子どもは選択肢が増えて楽だという、これまた「一貫性」や「意識統一」といったものを重視している立場の人なんかに反感買いそうな考え方も述べられているが、これもひとつの方策に過ぎず、オールマイティではないと思う。汐見さん以前に、よく、ファミリーサポートセンターの利用を薦めるような助言が多少なりとも功を奏することが、いわゆる「母子カプセル」のような問題に対する育児相談の定石としてあるようだが(これもオールマイティではないと思うが)、いまのところ、定石となった方策はそれくらいのもので、あとは、それぞれの環境や人間関係の中で、「母子カプセル」を開いて、外からの風通しを良くしていく解決策を、個々が切り拓いていくしかないのが現状だと思う。

 それでも、とりあえずは解決策を見出すに至らなくとも、この本で汐見さんが触れてくれているこのような社会状況の変遷についての分析は、今、子育てのしんどさを解消していくために明らかにされるべき、非常に必要とされている知見のひとつであると感じる。こうした社会状況についての認識が常識になるだけで、子育てはずいぶん楽になるだろうし、なにか有効な手段が生まれてくる可能性だってある。何が問題かが分かっていないのに、解決に至るわけはない。

 社会や歴史を視野に入れた、そういう子育て研究がもっとあって然るべきでないだろうか。個人的には、そういう「当たり前」と思われていることを意識させて相対化するような子育て本こそが本当に面白く、有効なものになり得ると思うので、切望する限りである。例えば、構造主義の方法論による研究…などというものだったら、時間があれば私自身もやってみたい。

 ちなみに、『ほめない子育て』って、全体的にはポスト構造主義の香りがする。「強制せず、無理強いせず、自由に」みたいなところが。反面、「環境調整をして子どもの遊びを広げていこう」などという話を読むにつれ、これは「人間は自由なつもりでも、結局は構造から逃れられない」などという話のようにも思えたりして。結局、大人に「調整」されているわけだから。我々が育ってきた「構造」は、そんなに甘くない。そんなに簡単に、完全な自由は手に入らない。

 まあ、本書の出版から既に十数年経過している現状をみるにつけ、結局のところ、汐見さんが力説して薦めていることのうち、肝心なところは忘れ去られてしまったのか、注目もされなかったのか、「やりたくないことは無理にやらせないで、子どもに自由を」というところだけが、時代の子育てムードに合致してしまったという流れを感じる。だから、本書のそこのところは、一般に受け入れられやすいと思う。逆に、最近の療育・教育では、そこのところを「ほめすぎる」のと同じくらいやりすぎてしまうスタイルへと流されざるを得ない「構造」が厳然としてある…と、私には感じられていて、「やりすぎは何事もいかんよ」と、私はそこが大問題だと思うので、そこのところの「構造」を明らかにして、バランスをとっていくことが、今は最も肝要なのではないかと思う。

 僭越ながら、本書には、子育てが楽になるヒントや、鋭い画期的な指摘をしている部分が明らかにあるのに、そもそも『ほめない子育て』などというタイトルをつけてしまったことからして、構造に絡めとられてしまっているわけで、相当に意識していなければ、このあたりの構造を相対化しておくことは不可能なのだと、気が遠くなってくる。多くの子育て本が超えられない壁は、恐らくこのあたりにある。「このあたり」などという、曖昧な書き方をしてしまったので、もう少し言ってみれば、きっとなんとなく私には、この本の底辺により強い心理主義化への志向があることが感じられている。さらにもう少し具体的に突破口を示せば、昨今の子育て不安を惹き起こしている要因のひとつとして、若者の凶悪犯罪や自殺の報道がしきりになされていて、これらがひどく増加してきているという印象を我々は持たされているということが挙げられるわけなのだが、何かのきっかけでふと、きちんと統計を調べてみると、昔の方が圧倒的に数が多かったというデータが目に入ってくるわけで、そうなると、実のところ我々は、そういう偏見を抱えたまま子育て(危機)論を語ったり聞いたりしていた可能性が大きく、諸説あるようなので、ここでは「可能性」などと控えめに書いてみたものの、恐らくそういう偏見はもうやめにするべきで…いや、やっぱり諸説あることを尊重して控えめに書くとしても、少なくとも、子育てを論ずる動機や前提が、そもそも怪しい場合があるのだという認識をするところから始めなくては、こういう話は単なる情報操作をして喰っている人たちの片棒を担いでいることに、すぐさまなってしまう。もちろん、当事者の純粋な「困り感」や「人生」をスタートにした根源的ですばらしい子育て本も実在することを強調しておきたいが、意識して構造を相対化しておかないと、子育て論は簡単にこうした構造にいつの間にか関わってしまって絡みとられてしまうことを自覚すべきではなかろうか。


参考:「少年犯罪データベース 自殺統計」


若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

(おわり)

『ほめない子育て』(1)

ほめない子育て―自分が大好きといえる子に (ヤングママ・パパの「いきいき」子ども学シリーズ)

ほめない子育て―自分が大好きといえる子に (ヤングママ・パパの「いきいき」子ども学シリーズ)

 このタイトルにしても、書き出しにしても、意外なことを突然言ってみて、「つかみはOK」。マーケティングっすね。しかし、最初のページを読んだだけで理解できるのは、これはタイトルどおりの「子どもをほめないようにしよう」ということのみを啓蒙したい本ではないらしく、叱ることも含めて、要するに「大人が子どもを評価するのはあんまりしないほうがいいよ」と、とりあえずは言いたい本らしい…ということだ。

 それなら、本のタイトルは、『評価しない子育て』じゃないか?と思うのだが、まあ、『ほめない子育て』と言った方が興味を引くのか。しかし、なぜ、こんな衝撃的なタイトルをつけてまでして、大人が子どもを評価することに対して注意を喚起する必要があるのだろうか?「出版不況」と言いますが、やっぱり、本を売る人も大変なのかなあ…などと想像して、そういう問題も立ててみたくなってきますが、一方で、子育て周辺の事情通の方のみでなく、広く一般にも、「子どもをほめろ」という話には、思い当たる節がありすぎるくらいあって、「ほめるな」と言われたら、それは「コペルニクス的転回」というぐらいの話に聞こえるんじゃないでしょうか。中にはきっと、逆に、これを読む以前に敵視、あるいは蔑視、あるいは無視すべき本の仲間にカテゴリーしてしまった立場の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 このあたりについて、本書での汐見さんの主張を、私が以下に頑張ってまとめてみましたが、なるだけ原文に忠実に書いてみようと配慮してみたものの、抜粋箇所の選択やら列挙の仕方などは、やはり思いっきり私の主観ですから、興味がおありの方は実際に本を手にとって読まれることをお薦めいたします。

 今の子どもたちには、自己肯定感や自己受容感がうまく育たなくなっている。その直接的な要因は、幼稚園や保育園の先生、お母さんたちの子どもを評価しようとするまなざしにある。

 大人たちの子どもに対する評価が、想像以上に今の子どもに重くのしかかっている。子どもには、親の目や大人の目からまったく自由に、好き勝手に過ごす時間が急速になくなりつつある。

 お母さんが一生懸命育てようとすればするほど、子どもを自分の手のひらにのせることになってしまう可能性が大きい。子どもはお母さんの愛情を失うことがもっともつらいから、お母さんの手のひらの上にいかにしてうまくのれるか、あるいはお母さんが敷いたレールの上をいかにうまく走れるかということにいつしかこだわり始め、もしそれができなかったら自分はダメなんだと思い込んでしまう。

 では、子どもの自己肯定感を育てるために、子どもをいっぱいほめて育てればよいのであろうか?ほめるということは、子どもの行為に共感する程度ならよいと思うが、不必要にほめたり、大げさにほめたりすることを続けていくと、逆に子どもの自己肯定感を弱めてしまうことになるかもしれない。それは端的にいうと、子どもを人の評価に敏感な子どもにしてしまうからなのだ。実は、叱るということとほめることは、どちらも、他者であるお母さんや保育者が子どものやることを上から評価するという点で同じなのである。

 親が子どもを評価していると、親と子どもの間にいつしか権力的なタテの関係が生まれてきて、指示―服従的な関係になっていく。叱ったり、けなしたりすることによって、子どもを誘導しようとする、あるいは、お母さん自身が子どもによく思われたいという意識が働いて、その結果ほめるという行動に出る。その結果、力の強いほうである親に従わなければいけないという服従の心理が子どもに芽生える。一段高いところからほめたりけなしたりすることこそは、その意味でお母さんたちにはそのようなつもりがないとしても、実は、さりげなく親という権力を使って子どもをコントロールしようとしていることになるのである。

 「チャイルド・マルトリートメント」などという文脈からすると、これは、なかなか画期的で示唆に富んだ話であるとも受け止められるのだろう。また、はっきり言ってはいないけれど、どう考えてもこれは、ここ数年でメジャーになってきたいくつかの子育てや療育の流派に対するアンチになっているようにも思えて、東大助教授(当時)あたりがこんなこと言っちゃってたら、すごい事態になってしまうじゃないか!と、なかなか驚嘆に値する本である…と思いきや、まあ、その当事者同士が、お互い本気で議論を始めるのなら「すごい事態」なのだけれども、今のところ無視しあっているのか、少なくとも今の私は「大した事態」を全く認識できないでいる。明らかに対立点があるのに、こういうものなのだろうか?ゆえに、主張している内容の割に、実効力としては、あまり驚嘆に値する本になっていない。出版があと10年遅ければ、どうなっていたのかな。

 ところで、私としては、(本書の中で最も期待をしていた)この「ほめない」ということを勧める理由を筆者が語っていく展開は、少々残念なのであった。それというのも、「ほめない」ということは、つまり「条件付きの肯定をしないで、無条件の肯定をしよう」というような議論をするのだろうと期待していたからなのであった。まあ、これは単なる私の都合なので、本書の一般の評価とは無関係な、私が個人的に残念だったというだけのことなのだが(そもそも、本ブログは極めて個人的な視点で語っているに過ぎないわけだが)、私が普段の発達に関わる相談業務の中で出会う子どもたちの中には、幼少の頃から条件付きの肯定を意図的に(場合によっては不自然に過剰に)保育や療育場面で与えられ続け、そうなると、大人の目というのは多くの子どもの場合、大人にその気はなくてもどうしても気になるものになるようで、できない課題をどうにかうやむやにしてなんとかごまかしてやり過ごして、なんとか大人からの評価をかわし、自分を保っているかのように見立てられるケースが少なくないのであった。そんな子どものしんどさが気になりだし、そこらへんの突破口を追求してみたくて、この本を引っ張り出して読み始めたという経緯が私にはあった。しかし、この本では「自己肯定感」「自己受容感」ということは言っているが、「無条件の肯定的関心」のような話には、間接的には関係あるかな?という程度で、ストレートには触れてくれていない。そういうわけで、個人的には残念であった。

 さてさて、本書の先程の私が要約した部分の続きを読み進めていくと、次第に本書の本性が明らかになってくる。結局のところ、「指示―服従的な関係」で、子どもが評価や強制をされることなく、親子が「横並び」の立場で共感・共苦しながら、子どもが気兼ねなく自己主張し、自由な選択ができる(ようになる)生活を送らせることの重要性を説くことが、この本の真のテーマではないかと、私には感じられたのであった。「ほめない」というのは、主要な主張のひとつのようではあるけれど、(悪い表現で失礼ですが)つかみに使われた「エサ」ではないか?という気がしてきた。

 まあ、私の推測はともかく、ざっと論の展開をメタ視点で辿っていくのも、本書のなかなか愉快な読み方ではないかと思う。というのは、そんなこんなで冒頭で勢いよく主張を始めちゃったこの本、なかなか興味津々であるのだが、汐見さんは自らの極論をそのままにはせず、早速p.32で微妙な修正に着手しだす格好となるのだ。正直にも、「じゃあ、社会のルールやきまりごとをどうやって教えるのか?」「しつけはどうするのか?」「子どもが危ないことをしているときはどうするのか?」といった、当然、出てくるであろう疑問を自ら先回りして、汐見さんがその対策を披露し始めるからなのである。

 極端に走らない汐見さんの姿勢には大変な好感を覚えるのだが、そのおかげで「ほめない子育て」という当初の単純なスローガンはぐだぐだになり、世のお母さん方が読破した折には、これは現実的にこれからの我が子との付き合い方をいったいどのようにすべきなのか、結果的にはわけが分からなくなってしまうのではないか?という気がしないでもない。考えてみればタイトルはものすごい極論なわけだが、それを極論のまま放置しなかったというのは真摯であると思うし、「ほめない」などと言っても、事はそんな単純な話ではなく、要はバランスということなのだろうけれども、そのバランスのとり方をこまごま言われたところで、なにか微妙に矛盾を感じる分かりにくいメッセージとなり、実際の子育てには断片的にしか役立つ情報はないことになってしまいそうな気がした。所詮は、よくありがちな子育て本の宿命に陥ってしまうのか…。

 そんなところで、冒頭でセンセーショナルに「ほめない」ということを印象付けたことが裏目に出て、だんだんすっきりしない話に聞こえてきて、読む気が失せてくる。ひょっとして、これ、「ほめない」ということを言わなくても、成り立つ本のような気がするが、「ほめない」と言わないと退屈で凡庸な、これまでにいろんなところで何度となく言われた「子どもに自由を!」というメッセージ(たしかに大事ではあるが)の、これといった売りポイントのない、マーケティング的には問題だらけの本になりそうである。

 汐見さんは、しつけを踏まえたうえで、上から子どもを評価しないまま子育てができる既成の方法として、「親業」と「アドラー心理学」の手法を名前だけ紹介してくれているが、私としてはそう言ってもらったらようやくイメージできたのであった。ゆえに、具体的に子どもとの望ましい付き合い方を知りたいという人がこの本を手に取ることを、私はあまりお薦めできない気がして、それよりか、「親業」や「アドラー心理学」の本を読んでみた方が話は早いという気がする。絶対その方がいい。

親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方

親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方

 結局のところ、この本の議論は、「上から子どもを評価しない子育て」という話から、p.60からは「外発的動機(ほうびや報酬がもらえることにより惹き起こされる動機)ではなく、内発的動機(自分自身の興味や関心によって惹き起こされる動機)を持てるように子どもを育てていくことが望ましい」という話に移り、そのあたりから「ほめる」だの「叱る」だの「評価する」だのという話は徐々に影を潜め、p.73には「子どもを放し飼いにする」というどうやらこちらがこの本の本命ではないかというスローガンが登場、さらに各論に移っていく。タイトルを深読みして、この本の中身を読み始めた人の中にはがっかりきた人もいるのではないだろうか。

(つづく)

『間主観カウンセリング』(2)

(1)のつづき

 例えば、現代人は「自分の力だけで生きている」と傲慢になり、「祈り」を忘れている…という指摘が、本書の中で伊藤さんにより繰り返し行われていますが、これはかなり宗教色の強いことに触れちゃっているわけです。確かに、近代社会の人間にはこうした傲慢さがあるが故に、自分の抱える問題を手放せず、そして自分の運命を受容できず、より生きにくくなっているようなところがあり、ひょっとしたら嘘や幻想かもしれないけれども、そんな疑いを捨てて神に感謝して祈る習慣を本気で実践できるのなら、気持ちの上で生きるのが少なくともちょっとは楽になりそうな気はします。(…と書いていて、ふと思ったのですが、宗教依存して思考停止してしまっているような来談者の間主観カウンセリングってどうするのか、非常に気になります。宗教依存している人に、より深いスピリチュアル・コンヴァージョンが起きると、どんな変化が現れるのか、それにはとてつもなく興味が湧いてきます。)

 私は、かつてニューアカブームの頃、文化人類学に少々興味を持ったことがあって、そのおかげで「人間は、時々、共同体の周縁や外部に触れることで、活性化する。ずっと秩序の中にいるだけでは、いずれ死滅してしまう」という原理を知識として知っているのですが、そういうことからすると、秩序の中で科学的なカウンセリングを受けるようなやり方だけでなく、一時的に「外部」に触れて、自身のスピリチュアリティへの覚醒を促す体験(カウンセリングでも、カウンセリングじゃないものでも)を経ることで、活性化していくという方法ももちろんありえるわけで、そしてそれはむしろ人類の深く長い経験に基づいて辿り着いた昔から親しみのある方法であるのだと、容易に理解できるわけなのです。

 ちなみに、「外部」のことに関しては、心理学の領域で語るより、文化人類学や物理学(量子論宇宙論とか)や数学(クルト・ゲーデルとか)や科学哲学あたりで語る方が、なんだか一般にはアカデミックな話として伝わり、怪しまれないという構造があるような気がします。心理学から「外部」のことにどんどん踏み込んでいくと、いずれは科学をやめなくてはいけなくなる…という事例は、伊藤さんを待たずとも、すでにいくつもあって、故に「精神世界」などという領域ができているのではないかと思われます。

 さて、そういうことになると、ここで直面すべき問題が明らかにひとつある…と私には感じられて、それは、「間主観カウンセリングは、カルトにつながらないのか?その線引きをどこでするのか?」ということであります。ここのところが本書で明かされていないので、私は、ものすごく間主観カウンセリングを支持したい反面、危険も感じるので、思い切って支持できない状態になっています。

 従来の心理カウンセリングのよく言われる最終目標は「社会適応」であるわけですが、これに対して伊藤さんは間主観カウンセリングの最終目標をあくまで「スピリチュアル・コンヴァージョン」であるとしているようです。深い生きる意味を見出さない限り、来談者はいったん社会に適応したとしても、また苦難に晒されると再び精神の危機を迎えることになるからということのようです。あるいは、社会適応するということは、「べし・べからず」と指示・命令される「力の論理」に支配される社会に戻っていくということであるわけですが、来談者の本当の望みは「主体として生きること」ではないのか?とも、伊藤さんは述べています。

 小沢牧子さんなど日本社会臨床学会あたりでも、スピリチュアル・コンヴァージョンとは関係のない全く別枠の議論として、心理臨床によって促される「社会適応」をめぐる問題への指摘がなされていることを私は知っています。ここらへんから新たな潮流が生み出されていきそうな機運もかなり前からあるものの、全くメジャーな考え方にはなっていないようですね。こういうのは、あまり支持されないんでしょうか…分かりにくいですし。

「心の専門家」はいらない (新書y)

「心の専門家」はいらない (新書y)

 私の場合も少し前まで、セラピーの最終目標は「社会適応」であると信じていて、全く疑っていなかったので(私はカウンセラーではありませんが、セラピストとは名乗れる資格を有しているので、ここでは自分の問題として「セラピー」と言ってみましたが、現在、私がやりたくてやっているのは「セラピー」ですらあってはならないと自認するに至っています。しかし、不本意にも他の道を知らないが故にセラピーをやろうとしている場面も多いように感じています)、この伊藤さんの(あるいは小沢牧子さんの)指摘を拝読し、一般的に「社会適応」は本当にセラピーの最終目標であるのか?を検討する必要が確かにあると強く感じました。目から鱗です。

 しかしながら、心理カウンセリングを「社会でうまくやっていくためのものではない」とし、しかも宗教色を強めていくと、その結末にカルト化が待ってやしないかと、そこのところが不安になってくるわけです。

 間主観カウンセリングは、なにも特定の神を信仰しているわけではなく(それどころか、特定の宗教を持ち込むことを禁止しているのですけれど)、強制力のある教義もないようなので、大丈夫だろうとは思います。この場で、誤解されるようなことを(ほとんど影響力ないでしょうけど)私などが書いてはいけないとも思います。しかし、カルトとの絡みからすると、ちょっと安直に隙だらけでスピリチュアリティに接近しすぎなのが、慎重さが足りないと、僭越ながら私が心配に思ってしまったのは事実です。もっと、カルトとの線引きを明確に言語化して示さないと(本エントリ冒頭あたりの括弧内で触れた、宗教依存の問題を抱える来談者との間主観カウンセリングの事例を示すのも、効果的では?)、科学のバックボーンもないわけだから、うっかり怪しいどころか、社会にとって危険なものに化けてしまう疑いをかけられることだって、100パーセントは否めないでしょう。

 そういえば、話は変わりますが、私が中学生の時(校内暴力全盛の時代)の遠足で、かつて暴走族だったという坊さんの寺で説法を聞かされて、座禅を組まされたことがあった。なんでも、この坊さんは、その手のやんちゃな青年を何人も更生させたことがあるらしく、その地域周辺の中学校では、この寺に遠足に行くのが流行っていたようだった。まあ特にこの坊さんの説法を聞いて、私にはスピリチュアル・コンヴァージョンなど起こらなかったわけだが、更生したやんちゃな青年たちはスピリチュアリティに覚醒したのかもしれない。考えてみれば、この坊さんは、出家して俗世を断ち切ったわけだから、社会適応しているというのとは少し違うことになっていると思われ、そこも気になるところ。さらに、特筆すべきは、暴走族の青年が出家して坊さんになったってことは、そこのところがそもそもスピリチュアル・コンヴァージョンが起きたってことではないか!!こういう例を思い出してみると、確かにスピリチュアル・コンヴァージョンは深い。坊さんになれて良かった。

 あ、別にこの前段は、茶化したくて書いたのではないです。要するに、間主観カウンセリングって、こういう話だろう…と思うわけです。別に、カウンセラーじゃなくても、宗教家がやっていることじゃないか…と。瀬戸内寂聴さんとか。

孤独を生ききる (カッパ・ホームス)

孤独を生ききる (カッパ・ホームス)

孤独を生ききる (光文社文庫)

孤独を生ききる (光文社文庫)

 そういうことになると、当たり前なのだが、非常に画期的なことに気付いてくる。間主観カウンセリングでなくても、カルトじゃない宗教家になれば、構造上の問題もより少なく、(カルトに接近することなく)安全にこういう仕事をすることはできるではないか!

 でも、寂聴さんの「人間は誰しも孤独なのです」などというちょっと前に流行していたスピリチュアリズム好きの人が嫌いそうな話を聞くよりも、伊藤さんのカウンセリングのほうが、スピリチュアル・コンヴァージョンは起きそうな気がしないでもない(笑)。元々、宗教心のない人は、カウンセリングが入り口になるってこともあるか。だったら、間主観カウンセリングをするカウンセラーも、確かに必要か。難しいのは、こういう立場を現代社会に対してキープしていくということなのだ。村八分もあるし、魔境に呑み込まれることもあるし、リスクだらけなのだ。まあ、あれこれ書いた私が一番言いたいのはそこなのだ。

 ついでにもうひとつ。「医師に精神疾患の診断を受けている人は、間主観カウンセリングの対象ではない」というのが分からない。精神疾患があろうとなかろうと、人間はスピリチュアルな存在なのではないか?なんで、科学であることを拒否する間主観カウンセリングが、精神疾患の診断などという微妙な科学(一般的にはあれは科学的だと信じられているようだが、DSMの成り立ちなどを調べてみたところ、あれはきちんとした手続きを踏んだ科学とは言えない極めて恣意的で便宜的なカテゴリー化だろうと、私には思える)を持ち出して、このような原則を掲げるのか?しょせんは、間主観カウンセリングは、言語を用いて来談者とやりとりする方法であるので、言語を用いるコミュニケーションや認知機能に困難が生じる人を対象にすることは不可能であるということか?そうならそうと書いておいて欲しいが、書いていない。スピリチュアリティなどと言っても、霊的なもんじゃなく、あくまで言語でやっちゃっているところが、節度を保っているとも言えて、そう考えれば安全を感じるが、なんかイマイチ。

精神疾患はつくられる―DSM診断の罠

精神疾患はつくられる―DSM診断の罠

 ま、ゴチャゴチャ言ってないで、「精神世界は科学である」ということで、なんとか一括りにしちゃうという道もあって、ひょっとしたらそっちのほうが人類の未来にとってよほど実りあるかもしれない。

人類新世紀終局の選択―「精神世界」は「科学」である

人類新世紀終局の選択―「精神世界」は「科学」である

(おわり)

『間主観カウンセリング』(1)

 「間主観」と言うから、メルロ=ポンティあたりと(あと、私はあまり興味ないのですがフッサールあたりとも)関係あるのか?と少々期待したのですが、あんまり関係ないらしいです。なんでも、現象学やってもあまり参考にならなかった…みたいなことを、伊藤さんは書いておられる。私としては、現象学みたいな話を期待していたので、肩すかしを喰らってしまいました。

 でも、そういうことになれば、この本、難解なことを覚悟して読まなきゃいけないような本では全然なくなったわけで(笑)、それはそれで楽になったわけなのですが。

 要するに、来談者だけでなく、カウンセラーも自分の主観を積極的に述べることで、来談者に(同時に時にはカウンセラーも)深いスピリチュアル・コンヴァージョン(自分はスピリチュアルな存在であることに目覚め、正しい人生の方向性を見出すこと)を惹き起こすという、これまでのカウンセリングの禁忌を堂々と侵犯してしまうカウンセリングの手法を伊藤さんが編み出すに至り、これはそれを紹介してくれている本なわけです。伊藤さんの「かつて実証主義心理学をやっていた」という経歴が、皮肉にも、この理論の信憑性を上げちゃっているという。

 「カウンセラーは主観を語るべき」とはいえ、なんでも語れば良いということではなくて、結局のところはスピリチュアルな話をしなきゃいけないことになっているらしい。ここで言う「スピリチュアル」というのは、例の前世がどうしたの霊界がどうしたのということとは少し意味が違っていて、カウンセラーが今までの人生の中での、神の存在や、宇宙の神秘や、すべての人間とのつながりを感じた…等のスピリチュアルな体験を語ることにより、お互いのスピリチュアル・コンヴァージョンを促そうという話のようである。

 さてさて、そういうことを堂々と言っちゃうんだったら、伊藤さんが「主観」や「スピリチュアリティ」を重視することを広く一般に向けて説得しようとする当然の帰結として、心理カウンセリング界の既成の理論や常識や慣習のようなものを批判せざるを得なくなるわけで、そうなると、この本は私のような仕事上の必要に迫られて心理技法そのものやその周辺の知見に学びつつ、でもカウンセラーとは名乗らないような、しがらみのない立場の人が読むと、面白い…ということになっちゃう。

 科学的な心理臨床を施される場合には、来談者の「こころ(という言い方が適切かどうかは私は分からないが)」が客観的な観察や分析の「対象」として措定されてしまう。生きるのがつらくなっていることを訴えて、自分はどう生きて行ったら良いのかを探し求めてカウンセリングを受けに行くと、そのカウンセリングが科学的であればあるほど、来談者は人扱いされず、モノ扱いされるっていう話だ。

 あんまりそんなに露骨に冷たいカウンセラーは滅多にいないだろうが、人柄ではなく(人柄がカウンセリングの成功を左右するようでは科学的じゃないからね)、どんなに暖かく迎え入れられようと、方法論自体が、科学を標榜する以上、そんなことになっているという話だ。カウンセラー側からすると、どんなに暖かいカウンセリングを目指してみても、科学的であることにこだわれば、来談者をモノ扱いすることからは免れ得ないという話だ。

 これって、思い起こせば、つまり、「こころ」を対象としているにも拘らず、方法論としてはいまだにデカルトだということなわけだけれども、こうしてみると、果たして「こころ」も客観的な観察や分析の「対象」となり得るのか?というところがはっきり決着つかずに曖昧にされたまま、今日まで科学的な(?)心理臨床が行われてきたということが浮き彫りにされる。

 …というか、この手の心理学批判は昔からよく言われていたことでもあるわけだが、一般の人に対しては正面切って語ることが避けられてきた話だったということか。実際のところ、今に至っても伊藤さんがそんなに一般からも脚光を浴びているとは思えないので、未だに正面切って語られてはいないだろう。心理臨床を受けてみて「モノ扱いされている」みたいな不快感を感じる一般の人というのは、実際におられるようなのだが、臨床以前にそのあたりを気にしている人というのは、そんなにはおられないはず。

 一方で、行動主義心理学は、そういうことを前面に出して従来の心理学を「科学ではない」とばかりに批判して新たに「科学的である」とする手法を確立してきた…という実に意欲的な話もあるわけですが、そういう手続きを踏んでもらったところで、生きる苦しさを解決するために自分の「こころ」を自らモノ扱いしてもらうことを望む人っていうのは、近代社会真っ盛り(それどころか、ひょっとしたらもう終わりかけているくらいかも)の昨今といえども、そんなに大勢はいらっしゃらないであろう。(もちろん、私は、ご本人が必要を感じておられるのなら、そういう人がおられても良いと思う。)

 そこのところで、伊藤さんは、「心理カウンセリングで"客観性”なんて、矛盾だらけで、ありえない」と思いっきり言っちゃっている。それでもって、行動主義心理学がやっているような、あくまで客観的な科学であろうとすることとは正反対の方向に向かい、もう心理カウンセリングが科学であろうとすることを放棄しちゃったわけだ。なんという大胆さ。こういう体面を気にせずに本当に人の役に立つものを作り出そうとする正直な姿勢って、(僭越ながら)私は大好きです。

 伊藤さんが、本書で「無条件の肯定」に言及しているところで、私もなるほどと気付いたが、あれはいったい何を肯定しているのか?という問題が確かにある。赤ちゃんが生まれて肉体を持ち、その肉体を見た人が「かわいい」だのなんだのと言った時点で、それはもう条件付きではないか。だから、あれは、肉体や物質以前の何がしかを肯定するという話である可能性がある。ということは、臨床場面で当たり前に言われている「無条件の肯定」という常識は、よくよく考えてみると実に非科学的な話であり、そういう非科学の上にカウンセリングが成り立っていたという話であるかもしれない。もうすでにそんななんだから、心理カウンセリングの一部流派は、無理をして科学のフリをするのをやめたほうがいいのかもしれない。そういう意味でも、伊藤さんは正直だと思う。

 それでもって、この本を読み進めるうちにたいていの人ならじわじわと気付いてくると思うのですが、間主観カウンセリングって、要するにかつて(現在もそうであって欲しいけれども)宗教家がやっていたことをやろうって話でしょ?ということになってくる。

(つづく)

『幸福否定の構造』

幸福否定の構造

幸福否定の構造

 このレビューの読後、意味が分からなかったとしたら、それは、私の文章力のせいなのか?それとも、あなたの「抵抗」のせいなのか?(笑)

 精神分裂病(著者は意図して「統合失調症」と言わない)が薬物療法を用いなくても、心理療法で改善されていくという、相当な実績がなければ公言できないであろう話なのだが、これだけ臨床例があれば、文句は言えまい。しかしながら、なぜかみんなからは無視されるんだけれども…。

 笠原さんは、精神分裂病に限らず、心身症神経症等々に関しても、同じ原理で臨床をやっておられるというのだが、なんでも、要するに自分の閾値を超える幸福に見舞われると、リミッターがかかって、自分でその幸福をぶち壊そうとするために、いつのまにか「症状」が惹き起こされる…という話のようです。さらには、個人差はあるものの、この閾値精神疾患の有無に関わらずすべての人が持っていて、みんな多かれ少なかれ必ず何らかの状況で意識しないままに「これ以上はまずい」とばかりに幸福否定して、自分で自分の幸福の閾値を越えないようにわざわざぶち壊し続けている…という非常に斬新な話にまでなる。しかも、これらの意外な諸説を、なかなか緻密な論究を繰り広げた上で言ってみせていて、そこが、この本の恐るべきところでもある。

 そこで、臨床では、その症状を惹き起こした幸せな出来事を、臨床家が言い当てることで、その人の意識にのぼらせる。すると、驚くべきことに症状が消失してしまうというのだ。嘘ではない、なぜなら臨床例はいくらでもあるようだから。思い当たる付近のことを話しているうちに、クライエントから「反応」や「抵抗」が観察される。それを手がかりに症状を惹き起こした幸せな出来事を探っていくという。

 私は、精神分裂病心身症神経症のケースを扱う立場にないが、実際、一般的に子どもにしても大人にしても、気にしていることやら、感じないようにしていることやら、関心を持っているけど隠していることやらに言葉で触れられると、いつのまにかついついやってしまう反応があることは知っている。それは、気をつけて見ていれば、日常でも毎日のように観察される。急に、おしゃべりになるとか、落ち着かなくなるとか、泣き出してしまうとか、体がぴくっと反応するとか、トイレに行ってしまうとか。そこを手がかりに、その人の中にある認められてこなかった気持ちを認め、さらにその人にも自分の気持ちへの新たな気付きがもたらされると、人生が先に進み始めるということがある。だが、幸せな出来事についても、こうした反応が起こるということには、私は本書を読むまではっきりと意識したことがなかった。

 例えば、親と支援者が問題の核心に迫る話をはじめると、子どもが邪魔をするかのように騒ぎ出したり、眠ってしまったりするような頻繁にみられる現象は、“親が自分の秘めていた思いに気付いてくれる”などという幸せな出来事が起きないように、これまでずっと幸福否定してきたのに、それをやめさせられそうになることへの「抵抗」が起きている…と、そんな解釈もあり得るのだろうか。

 あるいは、子どもがガマンして表出を止めていたネガティブな感情を解放してあげることでどんどん良い方向に向かっていたケースが、ある時点で小康状態となり、なかなか先に進まなくなってしまうことも私はしばしば経験するのだが、それについても、ネガティブ(ストレス)を解消していくと、閾値までは落ち着いていくのだが、幸福否定しているため、どうしてもそこを超えない、しかも、無理に幸福の閾値を超えると、逆に強い症状が出てしまう・・・ということが起こり得るとも解釈できる。

 そういうことだとすると、ネガティブ(ストレス)よりも、幸福否定をテーマにすることが大切な場合もあり得るということになる。例えば、少々難しい学習課題ができたので、子どもに「できてうれしい」という気持ちが自然と湧いてきて当然だろうと察して、その気持ちに共感する場面を作ろうとして、私が子どもの感情表出を誘ってみるが、妙に子どものそっけない態度にあしらわれるという事態にしばしば遭遇する。「この子は、別にうれしくないみたいだ」と思って、少々大袈裟に「うれしい!うれしい!」などと騒いでいた自分の大人気なさに恥ずかしくなって、そのまま流してしまいたくなっちゃうのだが、幸福否定ということで考えれば、これは子どもに「抵抗」が起きている状況であるとも解釈できて、子どもの幸福の閾値アップを図る重要な場面となり得る可能性があるわけだ。

 笠原さんによると、精神分裂病患者は、幼児期になぜだかすでに「自分は普通の人間にはならない」と決めてしまっているのだという。だから、「一人前」「普通」「人並み」みたいな出来事が起こるだけで、症状があらわれるのだという。そこまで閾値が低いケースは稀かもしれないが、大人だけではなく、多かれ少なかれ幼児期でも幸福否定を始める可能性があるという認識を、多くの支援者が持つべきかも知れない。

 笠原さんは、幸福否定を弱めるために用いる「感情の演技」という方法について、本書の随所で述べておられる。いろんなバリエーションがあるようだが、主には、2分間ほど集中してもらって、その人に抵抗が起こりやすい「○○になってうれしい」という感情を作るように求め、意図して幸福への抵抗に直面させる…というものである。私も本書を読んで試してみたが、テーマによって2分間感情をキープできる場合と、眠くなったり、もとのテーマを離れてどんどん空想や物語が自分の中で勝手に進展して、いつの間にか違うことを考えていたりする場合があることに気が付いた。なかなかうまくできないのだが、「感情の演技」をやった後の数日は、なんだか物事がいい感じに進むような気がするのは思い込みだろうか?まあ、思い込みでも幸せなら儲け物だ。「幸せ」って実体じゃないだろうしね。

 そこで、ちょっとひらめくことがある。「子どもに好ましい行動を身につけさせるために、叱るのではなく褒めるべきだ」ということが、今日、当たり前に強く推奨されるムードがある半面、「褒めるのも叱るのと一緒で、子どもが人目を気にして本当に自分がやりたいことや思ったことを表現しなくなることが問題なのだ」という考え方もここ数年でぼちぼち出始めているようで、こうなると「じゃあ、子どもにポジティブな出来事が起きている場面では一体大人はどうしたらいいんだよ」と私にはモヤモヤ感が生じてきて仕方がない。しかし、ここで視点を変えて幸福否定という文脈で考えれば、こうした場面では子どもに幸福への抵抗が生じやすく、きちんと「うれしい」という気持ちを意識させることで、その子の幸福否定を弱める機会となり得る…とも捉えられる。それなら“褒める”ことの目的も変わってくるし、しばしば子どもをコントロールすることとセットになりがちな意味での“褒める”ということでもなくなる。“褒める”のではなく、“「うれしい」を共有する”とか“共感する”とか、違うアプローチもあることに気付くし、そもそもそれらは違うアプローチだったのだ…と、そこを区別できるというのも画期的だ。これはこのモヤモヤ状況の突破口になるのかどうか?

ほめない子育て―自分が大好きといえる子に (ヤングママ・パパの「いきいき」子ども学シリーズ)

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ほめるな (講談社現代新書)

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鉄腕アトムと晋平君―ロボット研究の進化と自閉症児の発達

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 さてさて、本書の終盤で論じられている、“なぜ人間の本質的なところを明らかにするような指摘が、しばしば「科学」の名の下に不当な非難や攻撃や無視を食らってしまうのか?”についての議論も面白い。要するに「科学」以前に、多くの学者が「幸福否定」して、人間の本質に気付かないように「抵抗」しているってことらしいが、それならよってたかってケチョンケチョンにやっつけられているような説は、かえって本当のことを言いすぎているから、そんな目に遭っている場合も(ひょっとしたらそれなりの頻度で)あるっていうことになる。逆に、大半が支持している説は、幸福否定の結果なので、そっちに行くと幸福ぶち壊しだ…って話になるか。あまり迂闊に一般化するのは注意したほうがよさそうだけれども、そういうことはあるということだ。

 ちなみに、人間には、幸福になろうとする「本心」と、幸福否定をする「内心」が生得的に(親のせいではないとしているが、そのあたりの論拠が本書では乏しいので、もうちょっと詳しく論じて欲しかった)そなわっている、と笠原さんは述べておられるが、これって、ちょっと昔だったら確かに笠原さんのおっしゃる通り、常識をくつがえす説であったのだろうと思う。しかし、今となっては、生得的かどうか?ということを度外視すれば、私がすぐ確認できるものだけでも、加藤諦三さんや岩月謙司さんやバート・ヘリンガーさんも幸せを避ける傾向について言及しておられる。まあ笠原さんとは文脈が違う話ではあるけれども、一般に、こうした見方を受け入れられるという人も増えてきているのではないだろうか?

不安のしずめ方―人生に疲れきる前に読む心理学 (PHP文庫)

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なぜ、「白雪姫」は毒リンゴを食べたのか

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新装版 ずっと彼氏がいないあなたへ

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愛の法則―親しい関係での絆と均衡 (OEJ Books)

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 あと、どうやら精神分裂病と、心身症神経症とでは、その発現機序は微妙に違うと笠原さんは考えておられるようなのだが、そこを結局あまり明確に書き分けないまま、後半は、精神分裂病の話のみになってしまったあたりが、なんだかうやむやにされた気がして、スッキリしない。最初は書くつもりだったけれど、「紙幅の都合」とやらが、後半を書いているうちに切実になってきたのか?それとも、(少なくとも出版当時は)まだよく整理されていない部分だったのか?

 全体を通して、精神分析を批判しつつも精神分析的な少々厳しい香りがする本なので、「幸福」という文字を見て「癒し」とか「スピリチュアル」的なものを期待して読み始めると読破できないかもしれません。精神分析っぽさに馴染めないという方もおられるかもしれませんが、でも、これは精神分析へのアンチであるし、幸福否定が症状を惹き起こしているということをここまで中心的に強調した流派は他にはなかったと思うし、なんだかんだいって、私には相当興味深い本だったです。

 まあ、通常は信じられないようなことが、臨床事例とともに書かれているから、信じざるを得ない…という本なので、読まなきゃ始まらない気がします。読者自身が幸福否定するために起こる「抵抗」のために、なかなか読み進められない不思議な現象も読中に実際に起きてくるので、読むだけで自分が幸福否定していることを意識して体験できる方も多いのではないでしょうか。「抵抗」のため読破できない方もおられる気がします。私が本書を薦めたとある人に、「図書館に置いていなかった」と報告されたことがありましたが、それは図書館員の「抵抗」かもしれません。(笑)

『しあわせ脳練習帖』

しあわせ脳練習帖

しあわせ脳練習帖

 頭の中が言葉だらけになってしまうから、本来的に自分が持っているはずの感性が働かなくなってしまう。自分が体験していることをありのままに感じる以前に、滅多なことでは揺らぐことのない言葉によって構築された世界が、すでに自分の中に出来上がっていて、その言葉で枠組みを崩すことなく考え続けるものだから、自分の悩みを生み出している世界観に変革が起きることはない。どこかに「悪いヤツがいる」という話になるが、恐らくは便宜的なその「悪いヤツ」は他人かもしれないし、自分かもしれない。ゆえに、精一杯努力して悩みを解消しようとすればするほど、もっともっとその自分の言葉によって絡め取られ、苦しめられ、一生懸命になればなるほど悩みはどんどん深くなっていく。こういう人の多くには、頭の中からすっきり言葉を追い出してしまい、言葉以前にまずは、あるがままに世界を感じ、それを受け入れることができれば、悩みから解放されることがあるようなのだが、一方で、(もし自分がそれを受容できればなのだが)新たにどこかの敬愛する大先生が授けてくれる御言葉によって世界観が止揚され、とりあえずは救われておくというパターンもある。後者の場合、一旦は自分を救ったその言葉が、いずれはなぜか自分を悩ませるように作用し始めるということもある。でも、自ら望んで棲みついた世界観の中で悩み続けるのも悪いもんじゃないということは、これを書いている私も自分を通してよく知っている。慣れ親しんだ世界観を失ってしまうのは恐いし、面倒くさいし、イヤなものだ。けっきょくみんな、しばらくはそのままそうしていたいんだ。とてつもなく悩んでいようとも、今のかけがえもなく大切な自分を保ち続けようとする行為は、なんとクレイジーでビューチホーでワンダホーなんだ!だから、まあ、飽きてイヤになるまでとことん悩むのも「すばらしき人生」ということでいいのかもね。もちろん、逆に、それまでの自分の頭の中にあった言葉を思い切って投げ捨て、新しい自分になってしまうのも、輪をかけてクレイジーでビューチホーでワンダホーなのだ!

 前段を書いている私の頭の中が言葉だらけじゃないか!…と、ここで自分をツッコんでおく。

 さてさて、仕事柄なのか、近代社会の宿命なのか、様々な場面でそんな頭の中が言葉だらけの女性の存在にじわじわと気付いてきました。“近代社会における言葉のありよう”をたっぷりと視野に入れつつ親子と関わることを生業にするという奇特な立場を今のところはキープしている私としては、そのあたりの問題についての考察をすすめておくことが宿題になっているようでもあり、この手の女性向けの本をブックオフで見つけたら、安く手に入れておく習慣ができてしまった。

 それで、本書。目次を見ると「言葉を失う体験」だの「直感力」だのという文字が目に入ってくる。パラパラと中をめくってみたら、そのあたりのことについて脳科学からの解説を試みてくれている本だということが分かった。しかも、すぐに読めそう。おまけに、ブックオフで105円。…ということで、購入。少女漫画チックな表紙のせいでレジで気恥ずかしい思いをさせられそうなのが、やや困る。そんな言葉により形作られた羞恥心は頭から消し去ってしまえ!…と、できればカッコいいのだが、実際は、他の本たくさんに紛らせて目立たないようにしてレジに持っていく自分なのであった。

 表紙だけでなく中身の要所要所にも、少女漫画チックな解説つきイラストが入っている。ターゲットは、未婚の女性のようだ。なんというか、スカスカな紙面に強調文字多用で、こういうフォーマットというのは、ブログ文化由来ではないかと。テーマは「しあわせ脳になるための方法」。それで、しあわせ脳になったら、「いつもの毎日が楽しくなります。ステキな恋がやってきます。情報に頼らずとも、自分に必要なものがピンと閃きます。目の力が強くなり、肌が美しく輝きはじめます。情感が豊かになり、アイデアがどんどん生まれてきます。ちょっとアンラッキーなことがあってもすぐに立ち直れます。」・・・と、こんなにいろいろいいことがあるようです。プロローグにこう書いちゃえば、思わず買ってしまう女性もいるんだろう。

 しかし、そのちゃらちゃらした見かけとは裏腹に、一読してみて、これはかなりよくできた本ではないだろうか、と感じた。「少女漫画チックな解説つきイラスト」というのは、伊達ではなく、その章や節に書いてあった要点を見事にまとめ上げていて、実に分かりやすい。「スカスカな紙面に強調文字」というのも、読みすすめる動機を与え、そして読みすすめやすく、要点も分かりやすい。言語による内容だけで読者に伝えようとするのではなく、こうした直感的な本の作りというのはメッセージを伝えるのに実に有効であることを感じる。脳科学を用いて論じようとすると、読むのが面倒くさい本ができてしまいがちなところを、ここまで一般にとても馴染みやすい形に仕上げた編集力が、すごい!!

 そういうことで、ここまで分かりやすく書いた著者(黒川さんか寺田さんかは分からないが)の、優秀さも察せられてくる。“分かりやすくする”ことには読者の脳みそにとってのデメリットもある…というようなことを、私は書いたことがあるが(『フリーズする脳』)、視点を変えれば、能力として自分の主張を効果的に伝える技術を持っていることは文句なく強みであるだろう。それを使う場所を選べばいいだけだ。

フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)

フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)


 ちなみに、「しあわせ脳」になるには、女性が陥りがちな「言葉」を使って物事をあれこれ考えすぎる状態を脱して、「直感力」を取り戻せば良い、ということらしい。それで、直感力を取り戻す方策として、

・早寝・早起き・朝ごはん
・時間をかけて物を作り、できたものを五感で味わったり、人に見せて、その相手の喜ぶ顔を見るような活動を日々行う
・瞑想・入浴・器楽曲鑑賞・絵画鑑賞等々の言葉を失う体験を日々行う
・泣きと笑いを活用して気持ちのバランスをとる
排卵前のイライラも自然の摂理として意味のあることなので、制御しない

・・・を挙げている。まあ、どうということないのだが、これを男女の脳の構造の差や、脳内ホルモンを持ち出して解説されると、なかなかの惹き付け感や説得力があり、自分の中に入ってきやすい。

 男女を比較しながらその差異を論じるスタイルが、理解を促しやすく、興味を引きやすく、実用的でもあるわけだ。「女性であるあなたはこうするといいよ」という本なのだが、男だってそれで自分のメンタルバランスを保つことができるんじゃないか?という気がして、だんだん、男女の違いっていうのが、ここでは大きな問題として感じられなくなる気もしないでもない。でも、生殖やら性の問題として、そこらへんはうまい具合に機能するように男女の差異ができているんだよ、という話のようでもある。

 また、「脳を飼いならそう」と自分の脳を相対化しようとするスタンスや、「しあわせになりたい」と思わない人が<しあわせになれる人>だというスタンスも、いい。すごく、いい。しあわせというのは、自分の欲望を満たしていくことで達成される状態ではなく、結果としてしあわせな出来事を引き寄せてくるような自分の状態だからだそうだ。私は好きだ、こういうの。

 極めつけは、黒川さんによる「あとがき」。あまりにいいので、「黒川伊保子」でググってみたら、これまたすばらしいことをネット上のあちらこちらに書いて下さっている。「あとがき」と同じネタを使いまわして書いておられるエッセイもネット上で見つけたが、これってやっぱり物事を相対化して言っている感じがいいんだよな。そして、言語音の発音と身体感覚と感性の繋がりに触れている文章も発見。黒川さんはこういう方面でも活躍しておられるようで、女性の問題にせよ、言葉の問題にせよ、僭越ながら私の関心事と重なる部分が多く、学べることがたくさんありそうで、これは目が離せなくなった。

『ハハハのがくたい』

ハハハのがくたい (こどものともコレクション2009)

ハハハのがくたい (こどものともコレクション2009)

(このレビュー、ネタバレ含む。)

 これは、すごい。「絵本」というものを徹底的にやってしまうことで、「絵本」の崩壊を誘い出しているかのようだ。少なくとも、教育的とも言うべき絵本がいかにくだらないものかを感じさせる触媒と成り得ている。そもそもが、発達の「ため」、成長の「ため」の絵本ではなく、絵本を読むこと自体が絵本の目的であるべきだったのかもしれない。

 出だしは、0〜2歳児向けくらいのオノマトペ攻撃からはじまり、そのうち、なんかこの本、ストーリーらしきものがあるようだぞ、と思わせたとたんに、妙に数字の「7(なな)」にこだわった歌詞を登場させ、「なんだ、数の勉強をするのか」と思ったら、「7」しか出てこない。なんじゃそりゃ?続けて、子どもの心を鷲づかみしそうな「しんだ」「しんじまっただ」と明るく連呼するブラックな歌詞を出し、そしたら今度はおもむろに「ハハハのがくたいは泥棒だった」とかなんとか書いてある新聞をおじさんたちが読んでいるシーン登場。おじさんたちが持っている新聞のあちこちに散在する落書きのような隠しメッセージが子どもを惹き付けそう。そして、クライマックス。突然、それまで仮名文字だけの本だったのが、漢字(ふりがなつき)だらけで文字数のかなり多い新聞記事の見開きを2連発させる。「国防費」などという幼児〜小学校低学年の子には難しい語まで出してしまう常識的には節操のないありさま。泥棒が忍び込んだルートを示した地図を載せ、それを新聞記事の文章でも説明してみせているが、幼児には少々難しい叙述である上に、分かったところで大した意味はない、という…。でも、こういうのを子どもって喜んで読みそうな気もしないでもない。最後は、最初のオノマトペ攻撃のリフレインで、「3部形式」や「ソナタ形式」のような音楽的な形式美まで感じさせ、終了。

 裏表紙に、なぜか高橋悠冶さん作曲の歌の譜面が載っていて、なんか深い意味ありげな本の感じがするが、まず子どもには分からないだろう。

 訳が分からんが、なんかすごい。対象年齢も何も想定していない感じが、爽快!!

 例えるならば、こういう書評ブログで「MacBook Air 11インチ欲しい!」などと、脈略もなく突然、書いてしまうようなものだろうか。

 子どもにウケそうな要素が随所に盛り込まれているが、本当にウケるかどうかは分からんので、試したくなって購入。しかし、今のところ、この本にハマる子は皆無。読みきかせは、収拾つかなそうで、ちょっと勇気がいる。一応、裏表紙に「読んであげるなら 3才から 自分で読むなら 小学校初級むき」と書いてあるが、どういう判断なんだ?

 いやー、絵本のマーケティングって難しい…そんなところか。一番の読者層は大人だったりして。