『間主観カウンセリング』(1)

 「間主観」と言うから、メルロ=ポンティあたりと(あと、私はあまり興味ないのですがフッサールあたりとも)関係あるのか?と少々期待したのですが、あんまり関係ないらしいです。なんでも、現象学やってもあまり参考にならなかった…みたいなことを、伊藤さんは書いておられる。私としては、現象学みたいな話を期待していたので、肩すかしを喰らってしまいました。

 でも、そういうことになれば、この本、難解なことを覚悟して読まなきゃいけないような本では全然なくなったわけで(笑)、それはそれで楽になったわけなのですが。

 要するに、来談者だけでなく、カウンセラーも自分の主観を積極的に述べることで、来談者に(同時に時にはカウンセラーも)深いスピリチュアル・コンヴァージョン(自分はスピリチュアルな存在であることに目覚め、正しい人生の方向性を見出すこと)を惹き起こすという、これまでのカウンセリングの禁忌を堂々と侵犯してしまうカウンセリングの手法を伊藤さんが編み出すに至り、これはそれを紹介してくれている本なわけです。伊藤さんの「かつて実証主義心理学をやっていた」という経歴が、皮肉にも、この理論の信憑性を上げちゃっているという。

 「カウンセラーは主観を語るべき」とはいえ、なんでも語れば良いということではなくて、結局のところはスピリチュアルな話をしなきゃいけないことになっているらしい。ここで言う「スピリチュアル」というのは、例の前世がどうしたの霊界がどうしたのということとは少し意味が違っていて、カウンセラーが今までの人生の中での、神の存在や、宇宙の神秘や、すべての人間とのつながりを感じた…等のスピリチュアルな体験を語ることにより、お互いのスピリチュアル・コンヴァージョンを促そうという話のようである。

 さてさて、そういうことを堂々と言っちゃうんだったら、伊藤さんが「主観」や「スピリチュアリティ」を重視することを広く一般に向けて説得しようとする当然の帰結として、心理カウンセリング界の既成の理論や常識や慣習のようなものを批判せざるを得なくなるわけで、そうなると、この本は私のような仕事上の必要に迫られて心理技法そのものやその周辺の知見に学びつつ、でもカウンセラーとは名乗らないような、しがらみのない立場の人が読むと、面白い…ということになっちゃう。

 科学的な心理臨床を施される場合には、来談者の「こころ(という言い方が適切かどうかは私は分からないが)」が客観的な観察や分析の「対象」として措定されてしまう。生きるのがつらくなっていることを訴えて、自分はどう生きて行ったら良いのかを探し求めてカウンセリングを受けに行くと、そのカウンセリングが科学的であればあるほど、来談者は人扱いされず、モノ扱いされるっていう話だ。

 あんまりそんなに露骨に冷たいカウンセラーは滅多にいないだろうが、人柄ではなく(人柄がカウンセリングの成功を左右するようでは科学的じゃないからね)、どんなに暖かく迎え入れられようと、方法論自体が、科学を標榜する以上、そんなことになっているという話だ。カウンセラー側からすると、どんなに暖かいカウンセリングを目指してみても、科学的であることにこだわれば、来談者をモノ扱いすることからは免れ得ないという話だ。

 これって、思い起こせば、つまり、「こころ」を対象としているにも拘らず、方法論としてはいまだにデカルトだということなわけだけれども、こうしてみると、果たして「こころ」も客観的な観察や分析の「対象」となり得るのか?というところがはっきり決着つかずに曖昧にされたまま、今日まで科学的な(?)心理臨床が行われてきたということが浮き彫りにされる。

 …というか、この手の心理学批判は昔からよく言われていたことでもあるわけだが、一般の人に対しては正面切って語ることが避けられてきた話だったということか。実際のところ、今に至っても伊藤さんがそんなに一般からも脚光を浴びているとは思えないので、未だに正面切って語られてはいないだろう。心理臨床を受けてみて「モノ扱いされている」みたいな不快感を感じる一般の人というのは、実際におられるようなのだが、臨床以前にそのあたりを気にしている人というのは、そんなにはおられないはず。

 一方で、行動主義心理学は、そういうことを前面に出して従来の心理学を「科学ではない」とばかりに批判して新たに「科学的である」とする手法を確立してきた…という実に意欲的な話もあるわけですが、そういう手続きを踏んでもらったところで、生きる苦しさを解決するために自分の「こころ」を自らモノ扱いしてもらうことを望む人っていうのは、近代社会真っ盛り(それどころか、ひょっとしたらもう終わりかけているくらいかも)の昨今といえども、そんなに大勢はいらっしゃらないであろう。(もちろん、私は、ご本人が必要を感じておられるのなら、そういう人がおられても良いと思う。)

 そこのところで、伊藤さんは、「心理カウンセリングで"客観性”なんて、矛盾だらけで、ありえない」と思いっきり言っちゃっている。それでもって、行動主義心理学がやっているような、あくまで客観的な科学であろうとすることとは正反対の方向に向かい、もう心理カウンセリングが科学であろうとすることを放棄しちゃったわけだ。なんという大胆さ。こういう体面を気にせずに本当に人の役に立つものを作り出そうとする正直な姿勢って、(僭越ながら)私は大好きです。

 伊藤さんが、本書で「無条件の肯定」に言及しているところで、私もなるほどと気付いたが、あれはいったい何を肯定しているのか?という問題が確かにある。赤ちゃんが生まれて肉体を持ち、その肉体を見た人が「かわいい」だのなんだのと言った時点で、それはもう条件付きではないか。だから、あれは、肉体や物質以前の何がしかを肯定するという話である可能性がある。ということは、臨床場面で当たり前に言われている「無条件の肯定」という常識は、よくよく考えてみると実に非科学的な話であり、そういう非科学の上にカウンセリングが成り立っていたという話であるかもしれない。もうすでにそんななんだから、心理カウンセリングの一部流派は、無理をして科学のフリをするのをやめたほうがいいのかもしれない。そういう意味でも、伊藤さんは正直だと思う。

 それでもって、この本を読み進めるうちにたいていの人ならじわじわと気付いてくると思うのですが、間主観カウンセリングって、要するにかつて(現在もそうであって欲しいけれども)宗教家がやっていたことをやろうって話でしょ?ということになってくる。

(つづく)