『幸福否定の構造』

幸福否定の構造

幸福否定の構造

 このレビューの読後、意味が分からなかったとしたら、それは、私の文章力のせいなのか?それとも、あなたの「抵抗」のせいなのか?(笑)

 精神分裂病(著者は意図して「統合失調症」と言わない)が薬物療法を用いなくても、心理療法で改善されていくという、相当な実績がなければ公言できないであろう話なのだが、これだけ臨床例があれば、文句は言えまい。しかしながら、なぜかみんなからは無視されるんだけれども…。

 笠原さんは、精神分裂病に限らず、心身症神経症等々に関しても、同じ原理で臨床をやっておられるというのだが、なんでも、要するに自分の閾値を超える幸福に見舞われると、リミッターがかかって、自分でその幸福をぶち壊そうとするために、いつのまにか「症状」が惹き起こされる…という話のようです。さらには、個人差はあるものの、この閾値精神疾患の有無に関わらずすべての人が持っていて、みんな多かれ少なかれ必ず何らかの状況で意識しないままに「これ以上はまずい」とばかりに幸福否定して、自分で自分の幸福の閾値を越えないようにわざわざぶち壊し続けている…という非常に斬新な話にまでなる。しかも、これらの意外な諸説を、なかなか緻密な論究を繰り広げた上で言ってみせていて、そこが、この本の恐るべきところでもある。

 そこで、臨床では、その症状を惹き起こした幸せな出来事を、臨床家が言い当てることで、その人の意識にのぼらせる。すると、驚くべきことに症状が消失してしまうというのだ。嘘ではない、なぜなら臨床例はいくらでもあるようだから。思い当たる付近のことを話しているうちに、クライエントから「反応」や「抵抗」が観察される。それを手がかりに症状を惹き起こした幸せな出来事を探っていくという。

 私は、精神分裂病心身症神経症のケースを扱う立場にないが、実際、一般的に子どもにしても大人にしても、気にしていることやら、感じないようにしていることやら、関心を持っているけど隠していることやらに言葉で触れられると、いつのまにかついついやってしまう反応があることは知っている。それは、気をつけて見ていれば、日常でも毎日のように観察される。急に、おしゃべりになるとか、落ち着かなくなるとか、泣き出してしまうとか、体がぴくっと反応するとか、トイレに行ってしまうとか。そこを手がかりに、その人の中にある認められてこなかった気持ちを認め、さらにその人にも自分の気持ちへの新たな気付きがもたらされると、人生が先に進み始めるということがある。だが、幸せな出来事についても、こうした反応が起こるということには、私は本書を読むまではっきりと意識したことがなかった。

 例えば、親と支援者が問題の核心に迫る話をはじめると、子どもが邪魔をするかのように騒ぎ出したり、眠ってしまったりするような頻繁にみられる現象は、“親が自分の秘めていた思いに気付いてくれる”などという幸せな出来事が起きないように、これまでずっと幸福否定してきたのに、それをやめさせられそうになることへの「抵抗」が起きている…と、そんな解釈もあり得るのだろうか。

 あるいは、子どもがガマンして表出を止めていたネガティブな感情を解放してあげることでどんどん良い方向に向かっていたケースが、ある時点で小康状態となり、なかなか先に進まなくなってしまうことも私はしばしば経験するのだが、それについても、ネガティブ(ストレス)を解消していくと、閾値までは落ち着いていくのだが、幸福否定しているため、どうしてもそこを超えない、しかも、無理に幸福の閾値を超えると、逆に強い症状が出てしまう・・・ということが起こり得るとも解釈できる。

 そういうことだとすると、ネガティブ(ストレス)よりも、幸福否定をテーマにすることが大切な場合もあり得るということになる。例えば、少々難しい学習課題ができたので、子どもに「できてうれしい」という気持ちが自然と湧いてきて当然だろうと察して、その気持ちに共感する場面を作ろうとして、私が子どもの感情表出を誘ってみるが、妙に子どものそっけない態度にあしらわれるという事態にしばしば遭遇する。「この子は、別にうれしくないみたいだ」と思って、少々大袈裟に「うれしい!うれしい!」などと騒いでいた自分の大人気なさに恥ずかしくなって、そのまま流してしまいたくなっちゃうのだが、幸福否定ということで考えれば、これは子どもに「抵抗」が起きている状況であるとも解釈できて、子どもの幸福の閾値アップを図る重要な場面となり得る可能性があるわけだ。

 笠原さんによると、精神分裂病患者は、幼児期になぜだかすでに「自分は普通の人間にはならない」と決めてしまっているのだという。だから、「一人前」「普通」「人並み」みたいな出来事が起こるだけで、症状があらわれるのだという。そこまで閾値が低いケースは稀かもしれないが、大人だけではなく、多かれ少なかれ幼児期でも幸福否定を始める可能性があるという認識を、多くの支援者が持つべきかも知れない。

 笠原さんは、幸福否定を弱めるために用いる「感情の演技」という方法について、本書の随所で述べておられる。いろんなバリエーションがあるようだが、主には、2分間ほど集中してもらって、その人に抵抗が起こりやすい「○○になってうれしい」という感情を作るように求め、意図して幸福への抵抗に直面させる…というものである。私も本書を読んで試してみたが、テーマによって2分間感情をキープできる場合と、眠くなったり、もとのテーマを離れてどんどん空想や物語が自分の中で勝手に進展して、いつの間にか違うことを考えていたりする場合があることに気が付いた。なかなかうまくできないのだが、「感情の演技」をやった後の数日は、なんだか物事がいい感じに進むような気がするのは思い込みだろうか?まあ、思い込みでも幸せなら儲け物だ。「幸せ」って実体じゃないだろうしね。

 そこで、ちょっとひらめくことがある。「子どもに好ましい行動を身につけさせるために、叱るのではなく褒めるべきだ」ということが、今日、当たり前に強く推奨されるムードがある半面、「褒めるのも叱るのと一緒で、子どもが人目を気にして本当に自分がやりたいことや思ったことを表現しなくなることが問題なのだ」という考え方もここ数年でぼちぼち出始めているようで、こうなると「じゃあ、子どもにポジティブな出来事が起きている場面では一体大人はどうしたらいいんだよ」と私にはモヤモヤ感が生じてきて仕方がない。しかし、ここで視点を変えて幸福否定という文脈で考えれば、こうした場面では子どもに幸福への抵抗が生じやすく、きちんと「うれしい」という気持ちを意識させることで、その子の幸福否定を弱める機会となり得る…とも捉えられる。それなら“褒める”ことの目的も変わってくるし、しばしば子どもをコントロールすることとセットになりがちな意味での“褒める”ということでもなくなる。“褒める”のではなく、“「うれしい」を共有する”とか“共感する”とか、違うアプローチもあることに気付くし、そもそもそれらは違うアプローチだったのだ…と、そこを区別できるというのも画期的だ。これはこのモヤモヤ状況の突破口になるのかどうか?

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 さてさて、本書の終盤で論じられている、“なぜ人間の本質的なところを明らかにするような指摘が、しばしば「科学」の名の下に不当な非難や攻撃や無視を食らってしまうのか?”についての議論も面白い。要するに「科学」以前に、多くの学者が「幸福否定」して、人間の本質に気付かないように「抵抗」しているってことらしいが、それならよってたかってケチョンケチョンにやっつけられているような説は、かえって本当のことを言いすぎているから、そんな目に遭っている場合も(ひょっとしたらそれなりの頻度で)あるっていうことになる。逆に、大半が支持している説は、幸福否定の結果なので、そっちに行くと幸福ぶち壊しだ…って話になるか。あまり迂闊に一般化するのは注意したほうがよさそうだけれども、そういうことはあるということだ。

 ちなみに、人間には、幸福になろうとする「本心」と、幸福否定をする「内心」が生得的に(親のせいではないとしているが、そのあたりの論拠が本書では乏しいので、もうちょっと詳しく論じて欲しかった)そなわっている、と笠原さんは述べておられるが、これって、ちょっと昔だったら確かに笠原さんのおっしゃる通り、常識をくつがえす説であったのだろうと思う。しかし、今となっては、生得的かどうか?ということを度外視すれば、私がすぐ確認できるものだけでも、加藤諦三さんや岩月謙司さんやバート・ヘリンガーさんも幸せを避ける傾向について言及しておられる。まあ笠原さんとは文脈が違う話ではあるけれども、一般に、こうした見方を受け入れられるという人も増えてきているのではないだろうか?

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 あと、どうやら精神分裂病と、心身症神経症とでは、その発現機序は微妙に違うと笠原さんは考えておられるようなのだが、そこを結局あまり明確に書き分けないまま、後半は、精神分裂病の話のみになってしまったあたりが、なんだかうやむやにされた気がして、スッキリしない。最初は書くつもりだったけれど、「紙幅の都合」とやらが、後半を書いているうちに切実になってきたのか?それとも、(少なくとも出版当時は)まだよく整理されていない部分だったのか?

 全体を通して、精神分析を批判しつつも精神分析的な少々厳しい香りがする本なので、「幸福」という文字を見て「癒し」とか「スピリチュアル」的なものを期待して読み始めると読破できないかもしれません。精神分析っぽさに馴染めないという方もおられるかもしれませんが、でも、これは精神分析へのアンチであるし、幸福否定が症状を惹き起こしているということをここまで中心的に強調した流派は他にはなかったと思うし、なんだかんだいって、私には相当興味深い本だったです。

 まあ、通常は信じられないようなことが、臨床事例とともに書かれているから、信じざるを得ない…という本なので、読まなきゃ始まらない気がします。読者自身が幸福否定するために起こる「抵抗」のために、なかなか読み進められない不思議な現象も読中に実際に起きてくるので、読むだけで自分が幸福否定していることを意識して体験できる方も多いのではないでしょうか。「抵抗」のため読破できない方もおられる気がします。私が本書を薦めたとある人に、「図書館に置いていなかった」と報告されたことがありましたが、それは図書館員の「抵抗」かもしれません。(笑)