『うしろ向きに馬に乗る』

うしろ向きに馬に乗る―「プロセスワーク」の理論と実践

うしろ向きに馬に乗る―「プロセスワーク」の理論と実践

 「プロセスワーク」とか「プロセス志向心理学」とかいうものがあって、その入門に良いと言われているらしい本です。すでに何らかの身体ワークのようなものにそれなりに慣れている方なら、深い一冊になりそうでしたが、人によってはさっぱり意味が分からないということになりそうです。私自身にしてみれば、これを読んだくらいでプロセスワークを分かった気になってはいけないと思いましたが、これは間違いなくすごいことが書かれている本であります。これを知らずに死ぬのはもったいないでしょう。

 私がミンデルさんを読もうと思った動機は、ヘリンガーさんの時と似たようなもので、プロセスワークが個人の問題解決にとどまらず、集団を対象とする「グループワーク」やら「ワールドワーク」なる方法を持っていることに興味を抱いたからです。だってもう、今となっては、楽しく生きる力や環境に恵まれた人ならばともかく、もし、成り行きで苦しい人生の袋小路に迷い込んでしまったのなら、いくら個人の問題だけに取り組み続けていても、キリがないでしょう?

 個人が元気になっても、すぐ社会(世間)に打ちのめされてしまう。それで、そんなに簡単に社会が変わるものでもないから、元気でいつづけるために、なんとなくそんな社会とは関わらないように(少なくとも、深入りしないように)するパターンがあるのだけれど、それでは決して元気じゃないんじゃないかと自分で思い始める場合もあるわけで、それを元気にうっかり派手にやってしまうとカルト化するなどということもあるかもしれないです。ほどよい路線として、吉田兼好みたいな隠遁生活を肯定的に目指そうという個人が出現していても、とっくにおかしくなくなってきている気がしますが、ここのところ、そんなものも含む「無縁」というものを肯定的に捉える立場で積極的な主張がなされたといえば、島田裕巳さんと中沢新一さんと池田信夫さんくらいのものでしょう。せいぜい、世間が形成されない程度に、リアルもしくはネットを通じて気の合う誰かとちょっとだけ(ひょっとしたらたくさんも可能かもしれないですけど)繋がろうと画策するくらいの隠遁加減(?)であれば、元気も出るかもしれません。まあ、本物の隠遁生活をやっておられる方が、社会(世間)に向けて立場を表明するなんてことがあったら矛盾してしまうわけで、だからこれはみんなが知らないだけで、どこかですでに実践している方がおられるかもしれないです。でも、こういったやり方じゃ、一般のサラリーマンなどを今後も続けていきたい方たちにとっては、ありえない話にしかなりません。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために (NHK出版新書)

人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために (NHK出版新書)

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

 そこでやっぱり、世間の中にあっても「人の目に惑わされるな、自分自身に従うんだ」などと心底思えるようになって、建設的になんとか社会適応し、自己実現を果たすなどという“個人の問題解決”といった路線ぐらいしか頼るものはなくなってくるわけですが、小沢牧子さんあたりを読めば分かるように、個人単位で問題を立ててばかりいると、社会とか組織のレベルでは問題を改善する必要がどんどんなくなってくるため、むしろ、心理療法などというものが、単なる社会制度(あるいは世間)を維持させるための道具に堕している可能性だってあるわけです。だから、これらを乗り越えていく必要がある。グループワークやワールドワークは、その突破口になるかもしれないと、私はそこらあたりの勉強も始めてみようと思い立ったのでした。

「心の専門家」はいらない (新書y)

「心の専門家」はいらない (新書y)

 本書では、私の知りたいその集団や組織に関するあたりのことは、終わりの方になって、「エサレン研究所とのワーク」という章でようやく触れだしてくれたくらいのことでした。まあ、それにしても組織的には相当な修羅場と化しているエサレン研究所が、ワークを通して統合されていく様が描かれていて、私がいままで通ってきた職場のいくつかのうち、あの職場にもこの職場にもこんなことが起こるのであったら、もっと楽しい職場になっただろうに(もちろん、もともと楽しい職場もたくさんありましたよ(汗))・・・などと思わずにはいられない記録でありました。しかしながら、グループワークやワールドワークを知るには、まだまだ、この程度の情報では不十分でしょう。本書はあくまで入門書という位置づけで、いずれ読むであろうミンデルさんの『紛争の心理学』に行き着くステップとして、ひいては、プロセスワークのセッションを受けてみたり、セミナーに参加してみたりするところまでに行き着くステップとして、プロセスワークの全体像を掴むために、私は読んだのでありました。

紛争の心理学―融合の炎のワーク (講談社現代新書)

紛争の心理学―融合の炎のワーク (講談社現代新書)

 いやいや、それにしても、ここから読んでよかったと思いました。とても刺激的な、世界観がどんどん更新されていくような話が満載の本でした。

 私の解釈では、「エッジ」と「チャンネル」という概念を理解することから、いろんなワークの展開のヴァリエーションが広がり、プロセスを楽しむことが始まるようです。あー、これ、間違ってはいないとは思うんですけれど、こういうところを真っ先に強調して取っ付き易くするのは、教育や療育や子育ての業界に、とってもありがちな啓蒙の仕方で、真髄に及ぶことなく表面的にしか言い表すことが出来ていない、いい加減な話かもしれませんから、ちゃんとお分かりになられたいみなさんは、是非、本書をちゃんとお読みになられることをお薦めいたします。

 そんなわけで、“全てを言い尽くせない”・・・ということを前提に続きを。「エッジ」って、つまり、新しい自分に変わっていこうというときに、ここをこれ以上、越えないように抵抗してしまう境界・・・といったところでしょうか。これ、特別な人にしかないということではなく、誰にでもあるもので、実際に、この概念で捉えられる現象は、自分も含めて身の回りで頻繁に起きています。とても役に立つ概念です。気を付けていなければ分からないですけれど。

 あれ?これって、どこかで聞いた話ではないですか?・・・そう、『幸福否定の構造』の「抵抗」ですよ。ミンデルさんによれば、エッジの手前にくると、病気の症状が現れるといいます。病気というものは、エッジを越える手前にずっといるからなってしまうというのです。要するに、今の自分を越えようとする欲求と越えたくない欲求とがぶつかり合って、身体上に症状を惹き起こすと解釈されるようです。「病は気から」と言うけれども、あれはこういう話だったかもしれないです。それで、逆に自分の今抱えている症状を入り口にして自分を注意深く観察していくと、気付いていなかった自分がなろうとしている自分が意識にのぼり、その欲求と自己一致することができれば、その症状はもうサインを出す必要がなくなるため、消失するという・・・常識からすると、嘘みたいな話ですが、「信じられない」という前に、この本に書かれているワークを試してみて損はないでしょう。しかし、こういうのってワークを体験する人にも向き不向きがあると思うので、「どうやっても、何も起きない」という人は、とりあえずは、プロセスワークがあなたには役に立たないということでしょうから、残念。

 あー、あと、エッジにくると眠くなることもあるようです。瞑想中に眠ってしまうことありますね。きっとエッジを越えかけていたんですよ。会議中に眠くなったら、そこに自分のエッジがあると勘繰ることもできます。ただの睡眠不足かもしれませんが。あと、相談中に、眠気を訴えられることがあります。深刻な相談をしている人が眠いわけはないんですけれど、その理由が分かりました。ついでに言えば、眠気についても「幸福否定」のため出現する「抵抗」と同じではないかと思うわけです。

 さて、そのエッジを越えて自己一致するための方策として、「チャンネル」という考え方が役に立つわけです。本書では、「聴覚チャンネル」「視覚チャンネル」「身体感覚チャンネル」「動作チャンネル」がよく出てきます。まあ、読んでいるうちに覚えちゃいますので、詳しくは本書をどうぞ。それで例えば、ミンデルさんは、「身体に問題を持つことは夢を見るようなもの」と仰っていて、まあ、夢は見るものだから「視覚チャンネル」なわけだけれども、その視覚チャンネルをプロセスしていたらエッジになって、そこでよりエッジを越えやすい道を探し始めて、その夢に出てきている人がなんて言っているか?などというあたりをプロセスし始めると「聴覚チャンネル」、その夢につながったそもそもの身体症状の苦しい感じを味わいプロセスしつづけたら「身体チャンネル」、その夢の登場人物がやっている動作を忠実に再現しようとプロセスし始めたら「動作チャンネル」・・・という具合に、違うチャンネルに入って、自分の感じているものを増幅させながら自己一致し、気付きにいたるようにプロセスしていくわけです。場合によっては、ここにエッジがある・・・と気付いたところでワークを終了した方がいいこともあるようです。むやみとエッジを越えるのは危険なので、できるだけやんわりとやっていくことを薦めているみたいですね。

 本書を読んでいるうちに、日常のいたるところ、あらゆる瞬間に、自分の抱えている問題を解決する糸口が顔を出していることが分かってきます。逆に言えば、今、この瞬間においても、自分の姿勢や所作のひとつひとつや話している言葉は、まだ気付けていない自分自身の将来の姿を見出す入り口になっているということなわけです。これは、驚異的な事実です。しかしながら、「自覚」がないと、何も起きません。「自覚」をもって、次々に進展していく事態を自然に流れるままに「観察」し、プロセスしつづければ、大きな気付きに至るのですが、エッジがあるので、なかなかこれが難しいことになってしまうのです。しかし、エッジを越えられなければ、同じ問題は何度も何度も繰り返し現れるそうなので、チャンスは何度でもあります。でも、通常、自覚されないままに、同じ問題が何度も起こり続けることになるのでしょう。

 自分が内面に抱えている葛藤を、不思議なことに、なぜかまわりの人が現実にやってみせてしまうという「ドリームアップ」という現象があるそうです。自分が逆に、相手の葛藤をドリームアップしていることもあるということでしょう。そういえば、仕事で、今日の相談はほとんど同じテーマばかりだった・・・ということがあります。電話相談を受けてみると、一日、なぜか同じテーマの相談ばかりになることがある・・・という話も聞いたことがあります。つまり、相談を受ける人の方が、自分の葛藤を解決しておかないと、来談者が巻き込まれてしまうということになるわけです。それで、早いうちに「自覚」をして、プロセスすればいいんですけれど、これに延々気付かないでいると、ちょっとまずいわけですよね。

 しかしながら、「同じ問題は何度も繰り返す」とか「ドリーム・アップ」について、「それは、あってはならないことだ」などと言い切ってしまっていいのかどうか?・・・ということになると、やっぱりミンデルさんは、方法論を言っているだけで、これは良いことであれは悪いことだ・・・といった価値観を示しているわけではないと、そういうことでいいのでしょう。しかも、「エッジは、越えなくてはならない」とは言っていないのは確かで、エッジを越えるかどうかは、本人が決めることらしい・・・と、本書で十分、読み取れます。一貫して、優しいのだと思います。

 ミンデルさんに倣えば、成長とは、“自分の今までの誤った考え方を捨てて、正しい考え方に改めていく”ことではなく、“今までの自分と新しい自分が「統合」されていく”ということになるでしょう。この「統合」という発想が、私が本書から得られた、最大の収穫でした。今までの自分は捨てなくていいのです。今までの自分は間違っていないのです。そして、相談する者が相談される者を統合するだけでなく、相談される者も相談する者を統合するという次元があり得るのです。これなら、「上から目線」のスタイルから脱却できます。そして、ゆくゆくは、自分は世界中のあらゆる人や考え方を統合していき、世界のすべてと一体となるところを目指して、成長していけばいいわけです。こんなに優しいスタイルが、あったとは!!ただ、どうすれば相矛盾する2つのアイデンティティを統合することができるのか、その都度、見つけ出していかなくてはなりません。そのひらめきに至るために、その2つのアイデンティティを十分に増幅し、お互いの言い分が十分に出揃っていくその流れを、自覚を持ってプロセスしていくという方法があるというわけなのです。

 ミンデルさんは、自身がやっているのは、「アート」に近いと仰っています。心理学より「アート」と言う方がしっくりくるのだそうです。そういえば、「癒されること」や「弛緩すること」と、「生きること」は、そもそも別物だったのです。そして、なにより生きてナンボではないですか。心理学より「アート」したいではないですか。病気は癒されるもので、緊張は弛緩されるものであると考えられがちだけれども、どちらも大事な自分の人生の一部であると考える方が優しいわけで、そこからなんらかの表現されるものや希求されるものが現れてくるのなら、その入り口をあっさりなくしてしまうのはもったいない。プロセスワークが明らかにしたのは、こうした一見ネガティブなものに逆らわずに従ってみるというやり方で、自分の人生が思いも寄らないより楽しいものになるということなのでしょう。そして、その入り口はあらゆる人生の瞬間で、誰もが見向きもしないような些細なところに転がっている。『うしろ向きに馬に乗る』というのは、そういうことのメタファーなわけです。本書が読めたら、そういう感じがよく分かってきます。


 さて、ここからは長いオマケ。もうひとつ、私には今のところ、どうしても整理し切れないのですけれども、読後にこれは重要だと気付き、独自に思索を巡らせてみたことがあるので、書いておきます。

 「エッジ」と「(幸福否定の)抵抗」は、問題意識や視点が全く違うところから出てきた概念なので、解釈や対処の仕方などをひっくるめて同じだとは決して言えないものですが、既述の通り、指している現象としてはかなり重なっているはずであると私は思うわけです。そしてさらに、これはとんでもない発想であるかもしれませんが、禅の「魔境」なるものも、「エッジ」や「抵抗」と重なる概念ではないのか?・・・と、とにかく、そんなことがひらめきました。まあ、本書に、プロセスワークが禅からも影響を受けていることが述べられていたので、あながちとんでもない発想ではないかもしれないです。

 およそ何事をなす上にも、これを邪魔するところの魔事・魔障というものがあるものであるが、参禅上にも内魔・外魔など(内心の妄想と外界の誘惑)沢山の魔障があって、いろいろ修行の邪魔をするものである。

 その内魔にも種々あるけれども、今は煩悩魔だけを挙げて注意をうながすこととする。

 その煩悩魔とは、千差無量の妨げをするところの心の上の魔である。例えば、いろいろの屁理屈を考え出して坐禅をやめようとしたり、また坐禅が進むにつれて種々珍しい感想や境界が現われてくると、それに心酔して修行がにぶったり、あるいはまたさまざまの幻覚が現われると、それを実在であるかと誤認して怖れたり、喜んだりするような類である。

 外魔とは、自分が病気をするとか、用事が多くて修行の暇がなくなるとか、他人が修行を妨げるとかいう類である。

 誰しもこの魔境には苦しめられるが、これに負けてしまっては徹底した修行はとうていできるものではない。だから真剣に参禅する人は是非ともこの魔境に打ち克って、勇敢に修行を続行しなければならないのである。

 〈中略)

 坐禅を熱心に実行していると、種々雑多なる変った気特が起る。今まで気にかけなかったような小さいことに心がとらわれて、腹が立ったり、立たなかったり、またこれまで気になったことが気にならなくなったり、それから、事実ないものが見えたり、音が聞えたり、戸障子があるのに外が見えたり等々、人によってまちまちではあるが、ずいぶんさまざまの変ったことがあるものである。この中、一番多いのは、眼に種々のものが見えるところの魔境である。接心会などになると、熱心な人は二、三日も坐ると、もういろいろな魔境が出てくる。これらの魔境というものは、現代の心理学の言葉を借りていうと、ようするに、幻覚作用である。

 なぜこういうものが見えるかというわけは、いちおうの道理は夢を見るのと同じ道理で、既往に於ける経験(たびたびいうとおり一度経験したことは潜在意識に明らかに印象して、永久に絶対無くならない)が半睡状態までおちいった時に出てきて立ち働く、これが夢である。さて、この夢というものは眼の睡めている時は見ないし、また熟睡の時にも見ない、半睡状態の時に限り見るのである。魔境もまたまたしかりであって、禅定の力によって前六識、すなわち顕在意識の分別妄想の突端がおさまると、そこに第七識、すなわち潜在意識が幻覚作用を起して出てくるのである。かような性質のものであるから、それに決して心を奪われないよう、また邪魔にしないよう、相手にもならぬよう、用心することが絶対に肝要なのである。

  引用元:『正しい坐禅の心得』 原田祖岳著(大蔵出版)pp.91-93

正しい坐禅の心得

正しい坐禅の心得

 「エッジ」も「魔境」も、それぞれ言い表せる範囲が完全に重なり合うわけではない概念であるように感じますが、「夢を見るのと同じ道理」とまで言ってしまえば、かなりこの2つはダブってきます。ところがです、ここからがよく分からなくなってくるわけですが、例えば次のようなエピソードの場合・・・

 ・・・接心中開枕後、例によって山門前の勅使岩という岩石の上で坐禅をはじめた。その後ろには夜目にも雲突くような杉の大樹が四、五本そびえている。時は真夜中の一時ごろだ、一生懸命工夫三昧である。と、その大樹の上から突然、ハハハ・・・・・・と恐ろしく大きな朗かな声で笑うものがある。正法盛んならば魔も盛んなりというて、こうしたことはこの道場に修行する者のしばしば経験することで、天狗というものだときいていたが、その天狗はどうやら後ろの杉の樹の上にいるらしい。だが熱心に打成一片に坐るばかりだ。平気で坐っていた。十分間も過ぎると大鉈で五、六度トントンと木を切る音をさせる。また十分間も過ぎると切る音をさせる、が依然として、こちらは坐禅三昧だ。ところが、今度は頭の上でストンストンと大鉈で樹を切る音がしはじめた。しかし、相変わらずこちらはなんともない、相手にしない。ストンストンはますます続く、しかも烈しくなってきた。そうこうするうちに「この野郎!」という気になってきた。おれの成道を邪魔する気かと怒鳴ってやった。そのうちにうす気味悪くなってきて、とうとう蒲団を持って帰って来てしまった。完全に敗北だ。

 これは、この野郎と思った時に、もう魔境につかまってしまったのであった。(中略)ところがそれを眺めたり、相手になったりして、道草を食っていればたちまちお休みとなって、九仞の功を一簀に欠くことになってしまう。なんとも口惜しいではないか。

 正法の佛法のみが、かくのごとく教え、かくのごとく本当の正定に入らしめるのであって、日蓮宗弘法大師真言宗などでは、この魔境を盛んに方便として用いている。方便として使う場合には、方便と知って用いるならば悪くはないが、第二流、第三流の末輩どもがそれのみを振りまわして騒ぐから、全く外道におちいっているような実状である。

  引用元:同前 pp.96-98

・・・と、これがプロセスワークだったら、「天狗がどんな声なのかをもっとはっきりイメージしてみよう」とか、「天狗が大鉈で木を切る動作をやってみよう」とか、「あなたは天狗に何と言ってやりたいか、その続きをやってみませんか」などと、天狗の相手をとことんやり尽くそうとするのではないかと思われるわけです。正に「うしろ向きに馬に乗る」っすね!(笑)

 そういうことで、このような同じ現象に対するアプローチの違いがなぜ生じるのか?という問題の存在に、ここで当然気付いてくるわけですが、まずもって、今の私に答え切る腕力はございません、残念ながら。

 しかしながら、いろいろ考えてみたことを書かせていただくと、そもそもが、坐禅は「悟り」というなんだか説明のしようのない状態に至る方法であるのに対し、プロセスワークは自分の「欲求」に自己一致していく、いわば現世利益のための方法であると思われ、だったら両者は目標として目指しているものが違うのは明らかなわけで、それなら当然、アプローチも違うだろうと考えることができそうです。

 これはなかなか説得力のある説明を考えた・・・と、自分でも思ってしまいましたが、そこまで言っておきながら、元も子もないことに、もっと細かく検証してみようとすると、果たして、本当にプロセスワークと禅は、違うアプローチをしているのか?というそもそもの前提における疑いが、捨て難く、出てきてしまいました。

 例えば、先の引用での、魔境に対しては「心を奪われないよう、また邪魔にしないよう、相手にもならぬよう、用心すること」という言い方が、厳格にはいったいどの程度のバランスを指しているのかをあまり明らかに示さない感じになっていて(まあ、それでいいのだと思いますが)、場合によってはプロセスワークくらいの魔境への関わりをした方が、魔境を早く乗り越えやすいということはあるのかもしれないです。プロセスワークですっきりしたところで、坐禅を再開するとか?・・・って、これでは矛盾するような気がしないでもないですけれど。魔境に出会ってプロセスするために坐禅するのか、坐禅の修行を進めるためにプロセスワークで魔境を乗り越えるのか?・・・訳が分からなくなりそうです。「日蓮宗弘法大師真言宗などでは、この魔境を盛んに方便として用いている」とも、引用にありましたが、これらの宗派が具体的にどんな方法を用いていて、そして、禅との対立点はどこなのか、興味が湧いてくるところであります。

 そんなことで、この問題の近辺には、宝がざくざく眠っている予感がします。私といたしましては、禅やプロセスワークについて、もっと研究して、ここのところをもっと詳しく論じることのできる腕力を付けて参りたいものでございます。あっ、これ、私の二次プロセス(私がなりたい新しいアイデンティティ)っすね!ふむふむ、ここで書くのをやめるということは、ここにエッジがあるということでしょうか〈笑)。