『賭ける仏教』 (1)イントロダクション

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

 著者の南直哉(みなみじきさい)さんは、曹洞宗の和尚さんだそうです。某元社長とは全くの別人です。

 「仮想問答」とのことですが、実際の問答の相手は・・・なんとなく分かりますよね。

 以前、私は、「生や死や、それに絡んだ生き方についての探求なんて、心理学とかカウンセラーじゃなくて、昔から伝統的な宗教がやってきたことだし、その分野でやったほうがよっぽど安全な仕事ができるじゃないか」・・・みたいなことを書かせていただきました。『間主観カウンセリング』の時です。

 しかしながら、あの時抱いた私の伝統的な宗教に対する期待なんか、今日では、単発の事例としては叶うこともあろうでしょうけれども、一般化した営みとしては、なかなか希望を持てない状況になってきていることが、『賭ける仏教』を拝読するにつれ、窺い知れてくるのでありました。まあ、だから私も決して無神論者ではないのに特定の宗教に帰依していないのであって、これは薄々と何処かしら、私が「(私の場合、)宗教によって自分の人生が救われることはない」というようなことをすでに思い込み、いっちょまえに見切りをつけてきたせいではないか・・・と、その理由を考えることができるわけです。今ここで私は、自分のことなのに推量しているような書き方をしましたが、なぜならそれは、本書を読むまで私はそのことを自覚していなかったからです。多分、世の少なくない人が似たような感じではないかという気がいたします。

 ところが、このまま伝統宗教は堕落していく・・・と、あきらめなきゃいけない状況なのかというと、それはそうでもないのかも・・・と、それなりの希望を持って言うこともできるようです。

 科学が進歩した結果、人間は「生命」の領域のことについてまで、少しは操作できるようになってきています。それ故に、例えば、「どこまで人間は遺伝子に手を加えてよいのか?」などという問いにも向き合わざるを得ない局面に達しているようで、けれども、そんなメタな問いに対する答えを科学の閉じた言語体系の中に見出すことはできないだろう・・・という予感も大いに有り得て、そうなると、その答えを言語体系の外に通ずる宗教が(言語体系の外を言語で語ることはできないはずなので、そのスレスレのところで)示さなくてはならなくなるだろう・・・と、これは宗教にとっては謂わば復興のチャンスが訪れているのではないか?という見方もできるわけです。本書で南さんがそこのところを語っておられます。実はなんと、ここにきて伝統宗教は需要が高まってきているのかもしれないのです。(まあ、宗教家ではなく、優れた思想家かなんかが答えてしまうかもしれないですけれどね・・・。)

 閉塞感だらけの今日に至り、伝統宗教の一部の人たちも抜け目なく、これから人間がどう生きていけばいいのかを、新たに問い直しておられるようです。本書を拝読するにつけ、私は、思わず猛烈に、仏教に興味をそそられてくるのでありました。例えば、南さんの次のような言葉を通して、僭越ながら、仏教のこれからに期待を寄せたくなってくるのであります。

−今日は現代の仏教について、訊きたい。


 その言い方からして、きみはよい印象を持ってないな。


−そりゃそうさ。「葬式仏教」という批判もずいぶん長いが、葬式はいらない、と公然といわれるようになったら、その批判も極まれりだ。死にゆく人の世話もできず、死んだあとの家族のケアもしない。そもそも、現代的な問題意識が欠けているともいわれている。そのあたりを和尚はどう考えているの?


 それはそのとおりで、大方は、指摘されれば一言もないところだな。ただ、最近は若い僧侶や仏教者を中心に、従来の檀家や教団を越えて、社会と直接結びつく活動をする人たちが現れてきたことも事実だ。

 しかし、そういう事例があるにしろ、私がいま痛切に感じているのは、残念なことに、それ以前の問題なんだ。もちろん寺のありよう、僧侶のありようは問われなければならない。ただしその前提として、僧侶には「自分にとって仏教とは何なのか」をはっきりさせてもらいたい。


−そうか、そこからの話か。


 もうひとつ、仏教に真剣な関心を持ってくれる人たちには言ってもよいと思うのだが、仏教をあまりわかりやすいものだと思ってもらってはまずい。そう思わせるべきでもない。仏教は、必要な人と必要でない人がやっぱりいる、と私は思う。


−前にも仏教を必要とするのは全人口のなかの圧倒的な少数派だと言ってたね。仏教はマイナーな宗教思想であり、他の宗教と比べると圧倒的に弱いとも。確かに仏教はインドではイスラムに敗れて滅び、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマは中国の侵攻によって亡命を余儀なくされたように、外敵と戦えばほとんど負けている。進化論を持ちだすのは場違いかもしれないが、仏教や仏教が必要な人というのは、本当なら進化のなかで淘汰されるべき弱い存在なのかもしれないな。


 強者生存という考えが正しいなら滅ぶべき存在かもしれないが−しかし進化論においても必ずしもそうではないと思うが−生き残ることがなぜ善だと決まっているのか。滅んで何が悪いのか、ともいえるだろう。そもそも人類が絶滅して何が悪い、という発想だって当然ありうる。

 (中略)

 環境保護というのなら環境を破壊する人間がいなくなればいい。安楽死を認めるなら人類ごと安楽死させる方法もあっていい。

 (中略)

 仏教はどう考えても、人間であることや人類が存続することを、無条件でいいという考え方ではない。「成仏」とはある意味「人間ではなくなる」こと。要は、「人間」はダメなのだ。けっして人間であることを全面的に肯定する思想ではない。少数派になるのも当然だろう。


 引用元:本書 pp.120-123

 只事ではなく、すごいではないですか!「人間ってダメなんだ」という前提で説いてみせて、最終的には希望を持って受け止めることが可能・・・なんていうのは、栗本慎一郎さんや岸田秀さん以来ではないですか?あるいは、ニーチェ以来か?・・・あっ、仏教の方がずっと古いんだった。これでみなさんが本書を読んでみたいと思われないのでしたら、もうそれはそれでいいのではないでしょうか。

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

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ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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この人を見よ (新潮文庫)

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 他、仏教のオリジナリティを担っているという「十二支縁起」の解釈がいろいろありすぎて、意味が分からないままになっている問題を指摘した上で、著者自身の解釈を明らかにしておられます。日本の仏教教団では、独身修行僧で一生を終えることは難しく、いずれは住職にならなくてはいけない・・・といった問題を指摘され、修行僧、住職、一般信者の位置づけに関わる提言もされています。修業僧は、性欲をどうしているのかについて、かなり正直で赤裸々な話もして下さっています。南さんが菩提寺院代を務めておられる恐山の話もあります。すごい和尚さんだ。

 まだまだ仏教初心者の私にはよく分からない話も含めて語られていることが諸々あって、だからここで私は仏教の教義解釈について云々したい気分には毛頭なれませんし、私が「何が正しい仏教か」を説くなんて滅相もないことであると自覚いたしております。しかしながら、私の関わる領域の諸問題を本書に則って私が読めたところから論じようと試み始めると、どうしても教義について自分がどう解釈したのかの露出を避けられない文脈が出来てきて、そこを恐れると今度は殆ど内容のない文章しか書けなくなってしまいます。それでは勿体無さすぎる。ただただ本書には、少なくとも私自身の世界観に変革を迫る実感を伴った、そして刺激的かと言えば刺激がありすぎるくらいインパクトのある言説がそこそこございましたので、私の偏った仏教の解釈や誤謬も混ざり込んでしまうであろうことを敢えてお断りさせていただいた上で、本ブログの「子育て関連」という視点において重要であると感じられた論点を、予定では(2)から(5)のエントリーに整理し、(仏教そのものではなく)本書が私にどんな示唆を与えてくれたのか?というあたりを掘り下げて参ります。

(つづく)