『賭ける仏教』 (4)「賭ける」ということ

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

(3)のつづき

 本書がなぜ『賭ける仏教』というタイトルなのかは、本書の全てを読むことで理解されるべきなのでしょうけれども、端的に書かれている箇所を挙げるとすれば、ここでしょう。

 おそらく私には、いわゆる信仰はない。道元禅師のいう「信」や「正信」といわれるものしかない。その正体は「理由はわからないが、生きていくほうに賭ける」ということだ。だから私は、仏教を「信じている」とは言わない。「頼りにしている」と言う。

 引用元:本書 p.66

 結局、いまのところ、自己の由来も、生の意味も、何一つ分からないままなのです。そこで、生きることが苦しいのならば、自ら命を絶つという選択肢もあるのだけれども、そうはせず、よく分からないままに仏教に賭けるわけです。南さんは、「仏教が一番当たりそうだ」と「予想」し、生きることに賭けておられるわけです。

 死んでみたら、実は神様などおらず、極楽も天国も地獄も無かったという場合、そこは言語の体系外になるわけですから、そもそも「認識」ということが不可能で、信仰者も無神論者もどちらも生前と同じ「自分」という存在を自覚することの出来ない有るのか無いのか分からないような何かにどうにかなったりならなかったりするのみです。一方で、実は神様がいたならば、信仰者は「よかった〜」となるわけですが、無神論者は後悔することでしょう。そういうことであれば、神がいようといまいと、信仰することは“負けのない賭け”だということになるわけです。これ、「パスカルの賭け」という話だそうで、私は、本書で知りました。しかしまあ、そういう理由で信仰を持つというのは、ひどい話だと思います。

 宗教は「賭け」なのだという捉え方は、私にとっては目から鱗でした。なにか間違いのない確証を得て信仰するものではない・・・と。もっと言えば、多くの人は自殺することが能力的に可能なのに生きることを選択していて、それだって「賭け」ではないかということを意識させられました。生きるのがつらく、悩みが深く、やむなく考え過ぎるくらい考えてしまった時に、なぜ自分が生きることに賭けようとするのか、それにはなんらかの自分を納得させる言語的な説明が必要になるわけですが、なんらかの宗教(あるいは思想や哲学や科学や芸術など)の論理が仮設的にでも人を生きることに賭けさせる道筋を与えてくれる場合が大いにあるということなのでしょう。

 「人生はギャンブルだ」などという凡庸な例えがありますが、それも考えてみれば、あながちウソではないような気がします。日常でもしょっちゅう、はっきり確証を得ないまま「これがいいだろう」と賭けて判断していることの連続なわけで、自分が振った賽の目によって、良い結果がもたらされるのか、悪い結果がもたらされるのかなんて、思いもよらないことなのですけれども、私はすっかりそのことを忘れていたのでした。

 どこに住むか?今日のお昼は何を食べるか?飲み会で近くに座っている初対面の人に声をかけるか?連休の旅行はどこに行くか?今日は傘を持って出かけるか?電気製品は国産品を選ぶか?どの歯科医に虫歯を治療してもらうか?新しい連続ドラマを観るか?お茶とコーヒーのどちらを飲むか?どの学校に進学するか?どの仕事に就くのか?出勤時にどの交通機関を利用するか?会議で反対意見を発言するか?この人と結婚するか?子どもを産むか?とある特定の子育て法や療育法に従うか?子どもに早期教育を受けさせるか?少し熱っぽいので、お休みするか?評判の良い先生に自分の子を任せるか?子どもにスマホを持たせるか?子どもに宿題をやるようにうるさく言うか?家のローンを組むか?『賭ける仏教』を読むか?・・・どれも、事前にどんな結果が待っているのか、99パーセントと言えば分かることはあるかもしれませんが、100パーセント分かることなんか、ひとつもなく、やってみなければ分からないのではありませんか?

 全て「賭け」の連続であり、それどころか「賭け」しかないとも言えそうでもあり、人生はリスクだらけなのです。しかし、そういうことでは危険で恐くて仕方ないので、リスクを減らし、できるだけ「賭け」の要素を減らそうとして、例えば、まわりのみんな大勢がやっていることを自分もやっておけば大丈夫・・・という方策もあるでしょう。こういうことと「世間」は関係あるかもしれません。

 あるいは、ここでリスク軽減のため、「科学」だの「エビデンス」だのというものが利用されるという見方もできるでしょう。確かにこうした近代がもたらした恩恵により、相当に危険な賭けを回避することができる場合も多くあるように思います。

 しかしながら、いくら「みんながやっている」とか「科学」とか「エビデンス」などというものがあったとしても、もちろん、それらは100パーセントに近い確率で結果を予測できる場合もあるわけですが、原発事故やアメリカの大統領選挙の話を持ち出すまでもなく、想定外あるいは予想外の因子が加わってくると、制御された環境下での実験とは異なり、途端に予測できない事態に陥ることもあり得るでしょうから、究極的には、リスクがゼロにはならないのはもちろんのこと、場合によっては非常に危険な結果をもたらす選択ともなり得る・・・と、ちょっと考えれば気付けることでしょう。だから、科学を標榜するものですら、厳密には「賭ける」と言ってよい事態になっている現実に、私は思い至るわけです。

 あなたの購入した現代の科学技術の結晶とでも言うべき家電製品は、あなたがコンセントにつないでスイッチを入れるまでは本当に使えるのかどうか確実には分からないのです。

 本ブログ的に言えば、どの子育て法・療育法・教育法を選択するか?どの先生や指導者とともに歩んでいくか?を考える場合も、結局のところ、それが科学を標榜するものであったとしても、どうしても「賭け」となってしまうのではないか?という可能性をここで敢えて強調しておきたいわけであります。あなたはその先生なり指導者なりに、100パーセント確実とは言えない状況下で「賭ける」選択をしている可能性があって、さらに言えば、「賭ける」しかないのかもしれません。あるいは、ここで「従わない」という選択も「賭け」でしかない可能性があって、さらに言えば、「賭ける」しかないのかもしれません。

 きっと、我々は安全でありたいと欲望するから、本当はいつも賭けていることを意識のはるか彼方に追いやって、忘れ去って、一応は安心している・・・ということなのかもしれません。

 ここで岡本太郎さんを思い起こしてみます。「賭ける」という言葉は、岡本太郎さんの著書で多く目にした記憶が、私にはあるからです。

 繰り返していう。うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいいんだ。結果とは関係ない。めげるような人は、自分の運命を真剣に賭けなかったからだ。
 自分の運命を賭ければ、必ず意志がわいてくる。もし、意志がわいてこなければ運命に対する真剣味が足りない証拠だ。

 引用元:『自分の中に毒を持て』 岡本太郎著(青春出版社プレイブックス) pp.65-66

 こういうことになってくると、「賭ける」ということが、「世間」を超えた個を芽生えさせ、より深い生のリアリティを生じさせる可能性を感じます。岡本太郎さんは、人生の岐路に立った時、必ず、自分が危険を感じる、「こっちに行ったら駄目だ」と思うほうに進むことに賭けたそうですが、私は初めてそれを拝読した時に、そこまですればどれほど生きることのリアリティが感じられることかと、感動せずにはおられなかったです。まあ、そこまですることをもう普通に十分楽しく生きておられる方にお薦めしちゃダメだろうとは思いますが、結果ではなくて、「賭ける」行為そのものを意識して行った時にこそ、自分とは原初的には不確実な存在(ひょっとしたら存在していないのかも)であるにも拘らず、自分についてのリアリティがより深く感じ取れてくるということがあるようなのです。常に安全に生きるよりも、リアリティ。こうした文脈での「賭ける」という言葉は、決して悪い言葉ではないと感じます。ただし、賭けるのか、賭けないのか、どちらを選択するのかは、自由だと思いますが・・・でも、この選択自体が、すでに「賭け」のようですね。

 ついでに賭けたくない人のためにお節介させていただくと、本エントリーの文脈からすると、あらゆるものの相対化を進めようとするから、「賭ける」しかなくなるわけでしょう。賭け事がイヤだったら、「絶対」が間違いなくある世界観をどうやって持つかを考えていかなくてはならないでしょうけれども、それはそれで至難の業のような気もします。「空海」に突破へのヒントがあるかもしれません。

(つづく)