『間主観カウンセリング』(2)

(1)のつづき

 例えば、現代人は「自分の力だけで生きている」と傲慢になり、「祈り」を忘れている…という指摘が、本書の中で伊藤さんにより繰り返し行われていますが、これはかなり宗教色の強いことに触れちゃっているわけです。確かに、近代社会の人間にはこうした傲慢さがあるが故に、自分の抱える問題を手放せず、そして自分の運命を受容できず、より生きにくくなっているようなところがあり、ひょっとしたら嘘や幻想かもしれないけれども、そんな疑いを捨てて神に感謝して祈る習慣を本気で実践できるのなら、気持ちの上で生きるのが少なくともちょっとは楽になりそうな気はします。(…と書いていて、ふと思ったのですが、宗教依存して思考停止してしまっているような来談者の間主観カウンセリングってどうするのか、非常に気になります。宗教依存している人に、より深いスピリチュアル・コンヴァージョンが起きると、どんな変化が現れるのか、それにはとてつもなく興味が湧いてきます。)

 私は、かつてニューアカブームの頃、文化人類学に少々興味を持ったことがあって、そのおかげで「人間は、時々、共同体の周縁や外部に触れることで、活性化する。ずっと秩序の中にいるだけでは、いずれ死滅してしまう」という原理を知識として知っているのですが、そういうことからすると、秩序の中で科学的なカウンセリングを受けるようなやり方だけでなく、一時的に「外部」に触れて、自身のスピリチュアリティへの覚醒を促す体験(カウンセリングでも、カウンセリングじゃないものでも)を経ることで、活性化していくという方法ももちろんありえるわけで、そしてそれはむしろ人類の深く長い経験に基づいて辿り着いた昔から親しみのある方法であるのだと、容易に理解できるわけなのです。

 ちなみに、「外部」のことに関しては、心理学の領域で語るより、文化人類学や物理学(量子論宇宙論とか)や数学(クルト・ゲーデルとか)や科学哲学あたりで語る方が、なんだか一般にはアカデミックな話として伝わり、怪しまれないという構造があるような気がします。心理学から「外部」のことにどんどん踏み込んでいくと、いずれは科学をやめなくてはいけなくなる…という事例は、伊藤さんを待たずとも、すでにいくつもあって、故に「精神世界」などという領域ができているのではないかと思われます。

 さて、そういうことになると、ここで直面すべき問題が明らかにひとつある…と私には感じられて、それは、「間主観カウンセリングは、カルトにつながらないのか?その線引きをどこでするのか?」ということであります。ここのところが本書で明かされていないので、私は、ものすごく間主観カウンセリングを支持したい反面、危険も感じるので、思い切って支持できない状態になっています。

 従来の心理カウンセリングのよく言われる最終目標は「社会適応」であるわけですが、これに対して伊藤さんは間主観カウンセリングの最終目標をあくまで「スピリチュアル・コンヴァージョン」であるとしているようです。深い生きる意味を見出さない限り、来談者はいったん社会に適応したとしても、また苦難に晒されると再び精神の危機を迎えることになるからということのようです。あるいは、社会適応するということは、「べし・べからず」と指示・命令される「力の論理」に支配される社会に戻っていくということであるわけですが、来談者の本当の望みは「主体として生きること」ではないのか?とも、伊藤さんは述べています。

 小沢牧子さんなど日本社会臨床学会あたりでも、スピリチュアル・コンヴァージョンとは関係のない全く別枠の議論として、心理臨床によって促される「社会適応」をめぐる問題への指摘がなされていることを私は知っています。ここらへんから新たな潮流が生み出されていきそうな機運もかなり前からあるものの、全くメジャーな考え方にはなっていないようですね。こういうのは、あまり支持されないんでしょうか…分かりにくいですし。

「心の専門家」はいらない (新書y)

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 私の場合も少し前まで、セラピーの最終目標は「社会適応」であると信じていて、全く疑っていなかったので(私はカウンセラーではありませんが、セラピストとは名乗れる資格を有しているので、ここでは自分の問題として「セラピー」と言ってみましたが、現在、私がやりたくてやっているのは「セラピー」ですらあってはならないと自認するに至っています。しかし、不本意にも他の道を知らないが故にセラピーをやろうとしている場面も多いように感じています)、この伊藤さんの(あるいは小沢牧子さんの)指摘を拝読し、一般的に「社会適応」は本当にセラピーの最終目標であるのか?を検討する必要が確かにあると強く感じました。目から鱗です。

 しかしながら、心理カウンセリングを「社会でうまくやっていくためのものではない」とし、しかも宗教色を強めていくと、その結末にカルト化が待ってやしないかと、そこのところが不安になってくるわけです。

 間主観カウンセリングは、なにも特定の神を信仰しているわけではなく(それどころか、特定の宗教を持ち込むことを禁止しているのですけれど)、強制力のある教義もないようなので、大丈夫だろうとは思います。この場で、誤解されるようなことを(ほとんど影響力ないでしょうけど)私などが書いてはいけないとも思います。しかし、カルトとの絡みからすると、ちょっと安直に隙だらけでスピリチュアリティに接近しすぎなのが、慎重さが足りないと、僭越ながら私が心配に思ってしまったのは事実です。もっと、カルトとの線引きを明確に言語化して示さないと(本エントリ冒頭あたりの括弧内で触れた、宗教依存の問題を抱える来談者との間主観カウンセリングの事例を示すのも、効果的では?)、科学のバックボーンもないわけだから、うっかり怪しいどころか、社会にとって危険なものに化けてしまう疑いをかけられることだって、100パーセントは否めないでしょう。

 そういえば、話は変わりますが、私が中学生の時(校内暴力全盛の時代)の遠足で、かつて暴走族だったという坊さんの寺で説法を聞かされて、座禅を組まされたことがあった。なんでも、この坊さんは、その手のやんちゃな青年を何人も更生させたことがあるらしく、その地域周辺の中学校では、この寺に遠足に行くのが流行っていたようだった。まあ特にこの坊さんの説法を聞いて、私にはスピリチュアル・コンヴァージョンなど起こらなかったわけだが、更生したやんちゃな青年たちはスピリチュアリティに覚醒したのかもしれない。考えてみれば、この坊さんは、出家して俗世を断ち切ったわけだから、社会適応しているというのとは少し違うことになっていると思われ、そこも気になるところ。さらに、特筆すべきは、暴走族の青年が出家して坊さんになったってことは、そこのところがそもそもスピリチュアル・コンヴァージョンが起きたってことではないか!!こういう例を思い出してみると、確かにスピリチュアル・コンヴァージョンは深い。坊さんになれて良かった。

 あ、別にこの前段は、茶化したくて書いたのではないです。要するに、間主観カウンセリングって、こういう話だろう…と思うわけです。別に、カウンセラーじゃなくても、宗教家がやっていることじゃないか…と。瀬戸内寂聴さんとか。

孤独を生ききる (カッパ・ホームス)

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孤独を生ききる (光文社文庫)

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 そういうことになると、当たり前なのだが、非常に画期的なことに気付いてくる。間主観カウンセリングでなくても、カルトじゃない宗教家になれば、構造上の問題もより少なく、(カルトに接近することなく)安全にこういう仕事をすることはできるではないか!

 でも、寂聴さんの「人間は誰しも孤独なのです」などというちょっと前に流行していたスピリチュアリズム好きの人が嫌いそうな話を聞くよりも、伊藤さんのカウンセリングのほうが、スピリチュアル・コンヴァージョンは起きそうな気がしないでもない(笑)。元々、宗教心のない人は、カウンセリングが入り口になるってこともあるか。だったら、間主観カウンセリングをするカウンセラーも、確かに必要か。難しいのは、こういう立場を現代社会に対してキープしていくということなのだ。村八分もあるし、魔境に呑み込まれることもあるし、リスクだらけなのだ。まあ、あれこれ書いた私が一番言いたいのはそこなのだ。

 ついでにもうひとつ。「医師に精神疾患の診断を受けている人は、間主観カウンセリングの対象ではない」というのが分からない。精神疾患があろうとなかろうと、人間はスピリチュアルな存在なのではないか?なんで、科学であることを拒否する間主観カウンセリングが、精神疾患の診断などという微妙な科学(一般的にはあれは科学的だと信じられているようだが、DSMの成り立ちなどを調べてみたところ、あれはきちんとした手続きを踏んだ科学とは言えない極めて恣意的で便宜的なカテゴリー化だろうと、私には思える)を持ち出して、このような原則を掲げるのか?しょせんは、間主観カウンセリングは、言語を用いて来談者とやりとりする方法であるので、言語を用いるコミュニケーションや認知機能に困難が生じる人を対象にすることは不可能であるということか?そうならそうと書いておいて欲しいが、書いていない。スピリチュアリティなどと言っても、霊的なもんじゃなく、あくまで言語でやっちゃっているところが、節度を保っているとも言えて、そう考えれば安全を感じるが、なんかイマイチ。

精神疾患はつくられる―DSM診断の罠

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 ま、ゴチャゴチャ言ってないで、「精神世界は科学である」ということで、なんとか一括りにしちゃうという道もあって、ひょっとしたらそっちのほうが人類の未来にとってよほど実りあるかもしれない。

人類新世紀終局の選択―「精神世界」は「科学」である

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(おわり)