『ほめない子育て』(2)

ほめない子育て―自分が大好きといえる子に (ヤングママ・パパの「いきいき」子ども学シリーズ)

ほめない子育て―自分が大好きといえる子に (ヤングママ・パパの「いきいき」子ども学シリーズ)

(1)のつづき

 私も少々がっかりきたが、ただ、本書については格別に評価できると私が感じている点がひとつあって(前エントリから、身の程知らずにも、繰り返し、『ほめない子育て』をほめたり、「がっかりきた」だの言って、すみません)、むしろ、「ほめない」というところではなく、そちらの点において、是非この良書をたくさんの方々にお薦めしたい気分になった。

 それというのも、この本で汐見さんは、昔の子育て環境から現在の子育て環境への変遷についても、一般向けの大変分かりやすい言葉でもって論じてくれていて、それがなかなか新鮮な議論となっているのだ。要約すると、それはつまり、「核家族化」と「少子化」と「子どもが自由に遊べる場所の減少」が、母子の関係や子どもの自己肯定感・自己受容感に多大な影響を与えているという説なのである。

 昔は、大人のいない場所で、近所の子どもたちがほぼ連日、集まってきては、子どもの世界の中で子どもが自由に親の評価を気にすることなくいろんな挑戦をできる環境があった。また、その中で、年長の子が年少の子の面倒を見るようなスタイルで、集団のルールを身につけていくような機会もあった。

 しかし、現代に至っては、大人抜きで子どもだけが集まって遊べるような場所はほとんどなくなり、それどころか、母一人子一人で過ごさなくてはいけない時間が一日の大部分を占めているようなケースも増えてきている。そうなると、昔は意識しなくとも子どもが自然に身に着けてきたことを家庭や教育機関で意図的に身につけさせるようなことをしなくてはいけなくなるし、子どもはいつも一緒にいる母の感情を四六時中気にかけていなくてはいけなくなる。もし母に愛想をつかされたとしたら、もう他の親族や友だちに助けを求めることは最初からできなくなっているわけだから、母の感情を損ねることは(大袈裟でなく)子どもにとって自分の生命にかかわる大問題となっている。ゆえに、子どもは母の評価をとてつもなく気にかけるようになっているというのである。

 汐見さんは、「昔の親はそんなに上手に子育てをしていたわけではないだろうが、地域社会の影響力が大きかったので、個々の家庭の育て方に多少の差があったとしても、結果的に、それぞれの子どもは平準化されていた。しかし、現在に至っては、親の育て方が子どもの一生に与える影響が大きくなり、ダイレクトに子どもの一生を決めてしまう確率がうんと高くなってきた。そんなプレッシャーを母親が受けたら、育児ノイローゼになるのも無理はない」と、今どきの母親を擁護する議論も展開する。

 もしこの分析が一般に流通し出したら、世の母親たちはずいぶん救われることと思う。「上手に子育てできない」と自分を責めている母親にとっては、これはそんな個人の能力の問題ではなく(昔は個々の育て方がそれほど子どもにダイレクトに反映されることはなかったわけだから)、社会のあり方の変化により、自分がこんなに苦労しなくてはいけなくなっているのだ…という認識を持てるほうが、対峙している問題が明確になり、良い解決策が見つかるのではないか?

 ただ、今のところ汐見さんは「放し飼い」ということを処方箋として提唱しておられるが、果たしてそれだけで今の子育てのしんどさや子どもを過剰に評価し続けざるを得ない現状を解決できるのかは甚だ疑問だ。多少は、良い方向に向かうのかもしれないけれど、子どもにとって害になることもありそうな気がしないでもないので、多角的な検証がない限り、私は積極的に大勢の親子へお薦めしていく気がしない。また、父親と母親で、基本的な子育ての方針が同意できているならば、細々とした日常の「子どもがこれをやっていいか?悪いか?」ということに関しての意見の相違はむしろあったほうが、子どもは選択肢が増えて楽だという、これまた「一貫性」や「意識統一」といったものを重視している立場の人なんかに反感買いそうな考え方も述べられているが、これもひとつの方策に過ぎず、オールマイティではないと思う。汐見さん以前に、よく、ファミリーサポートセンターの利用を薦めるような助言が多少なりとも功を奏することが、いわゆる「母子カプセル」のような問題に対する育児相談の定石としてあるようだが(これもオールマイティではないと思うが)、いまのところ、定石となった方策はそれくらいのもので、あとは、それぞれの環境や人間関係の中で、「母子カプセル」を開いて、外からの風通しを良くしていく解決策を、個々が切り拓いていくしかないのが現状だと思う。

 それでも、とりあえずは解決策を見出すに至らなくとも、この本で汐見さんが触れてくれているこのような社会状況の変遷についての分析は、今、子育てのしんどさを解消していくために明らかにされるべき、非常に必要とされている知見のひとつであると感じる。こうした社会状況についての認識が常識になるだけで、子育てはずいぶん楽になるだろうし、なにか有効な手段が生まれてくる可能性だってある。何が問題かが分かっていないのに、解決に至るわけはない。

 社会や歴史を視野に入れた、そういう子育て研究がもっとあって然るべきでないだろうか。個人的には、そういう「当たり前」と思われていることを意識させて相対化するような子育て本こそが本当に面白く、有効なものになり得ると思うので、切望する限りである。例えば、構造主義の方法論による研究…などというものだったら、時間があれば私自身もやってみたい。

 ちなみに、『ほめない子育て』って、全体的にはポスト構造主義の香りがする。「強制せず、無理強いせず、自由に」みたいなところが。反面、「環境調整をして子どもの遊びを広げていこう」などという話を読むにつれ、これは「人間は自由なつもりでも、結局は構造から逃れられない」などという話のようにも思えたりして。結局、大人に「調整」されているわけだから。我々が育ってきた「構造」は、そんなに甘くない。そんなに簡単に、完全な自由は手に入らない。

 まあ、本書の出版から既に十数年経過している現状をみるにつけ、結局のところ、汐見さんが力説して薦めていることのうち、肝心なところは忘れ去られてしまったのか、注目もされなかったのか、「やりたくないことは無理にやらせないで、子どもに自由を」というところだけが、時代の子育てムードに合致してしまったという流れを感じる。だから、本書のそこのところは、一般に受け入れられやすいと思う。逆に、最近の療育・教育では、そこのところを「ほめすぎる」のと同じくらいやりすぎてしまうスタイルへと流されざるを得ない「構造」が厳然としてある…と、私には感じられていて、「やりすぎは何事もいかんよ」と、私はそこが大問題だと思うので、そこのところの「構造」を明らかにして、バランスをとっていくことが、今は最も肝要なのではないかと思う。

 僭越ながら、本書には、子育てが楽になるヒントや、鋭い画期的な指摘をしている部分が明らかにあるのに、そもそも『ほめない子育て』などというタイトルをつけてしまったことからして、構造に絡めとられてしまっているわけで、相当に意識していなければ、このあたりの構造を相対化しておくことは不可能なのだと、気が遠くなってくる。多くの子育て本が超えられない壁は、恐らくこのあたりにある。「このあたり」などという、曖昧な書き方をしてしまったので、もう少し言ってみれば、きっとなんとなく私には、この本の底辺により強い心理主義化への志向があることが感じられている。さらにもう少し具体的に突破口を示せば、昨今の子育て不安を惹き起こしている要因のひとつとして、若者の凶悪犯罪や自殺の報道がしきりになされていて、これらがひどく増加してきているという印象を我々は持たされているということが挙げられるわけなのだが、何かのきっかけでふと、きちんと統計を調べてみると、昔の方が圧倒的に数が多かったというデータが目に入ってくるわけで、そうなると、実のところ我々は、そういう偏見を抱えたまま子育て(危機)論を語ったり聞いたりしていた可能性が大きく、諸説あるようなので、ここでは「可能性」などと控えめに書いてみたものの、恐らくそういう偏見はもうやめにするべきで…いや、やっぱり諸説あることを尊重して控えめに書くとしても、少なくとも、子育てを論ずる動機や前提が、そもそも怪しい場合があるのだという認識をするところから始めなくては、こういう話は単なる情報操作をして喰っている人たちの片棒を担いでいることに、すぐさまなってしまう。もちろん、当事者の純粋な「困り感」や「人生」をスタートにした根源的ですばらしい子育て本も実在することを強調しておきたいが、意識して構造を相対化しておかないと、子育て論は簡単にこうした構造にいつの間にか関わってしまって絡みとられてしまうことを自覚すべきではなかろうか。


参考:「少年犯罪データベース 自殺統計」


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(おわり)