『賭ける仏教』 (3)言語と「余り」

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

(2)のつづき

 読み進めるうちに、本書でたびたび語られている仏教の世界観は、言語学者ソシュールが「ラング」という概念を通じて語った、つまりは「我々人間が見ている世界は言語があるからそのように見えている」といった世界観(「メタ世界観」とでも言うほうがふさわしいか?)と共通しているように思えてくるのですが、果たしてこれらは同じということでよいのか?…というところが気になってきました。そこで、いろいろ調べてみたところ、日本のソシュール言語学の第一人者であった故・丸山圭三郎さんがこれにお墨付きを与えている言説に出くわしました。

 ソシュールの思想が、東洋のナーガールジュナ(龍樹)たちの〈空〉観の、いわば無意識的継承であるとみなされるのは、彼が、人間の文化とは非本能的過剰物である欲望(本書、第I章参照)を生み出す言葉によって作られた〈記号〉である、と考えたからにほかならない。彼によれば、記号とは何らかの実体(即自的に存在する事物や観念)の標識ではなく、その逆に、実体と錯視される文化内の諸カテゴリーや価値を生み出す源なのである。
 記号が何らかのオリジナルをゆびさす代替物のように見えていたのは、恣意的分割線が物化した結果生ずる錯視による。ソシュール記号学とは、歴史的に構成ずみの制度内で用いられている〈文化の諸記号〉の研究であるとともに、人間文化そのものをシミュラークルとして捉え、その本質を発生の場におりていって解明する〈文化という記号〉の研究であった。

 引用元:『言葉・狂気・エロス』丸山圭三郎著(講談社現代新書)pp.62-63

 ラカンのいう〈無意識〉という名の言葉は、ソシュールが示唆した〈深層意識〉の言葉であり、さらに古くは、東洋の言語哲学が探求した意識の深層における言葉に近い。二世紀から三世紀にかけて活躍した大乗仏教学者のナーガールジュナの『中論』に基づいて般若空観を宣揚した〈中観派〉の考え方は、ソシュールフロイトラカンの思想を先取りしているとさえ思われるほどである。(後略)

 引用元:同前 p.98



 そんなわけで、南さんが語っておられる言語観がソシュール言語学に似ているということでよいのではないか…という気がここでますますしてくるわけであります。さらには、「ラング」と言ったときに出てくる「我々人間が見ている世界は言語によって分節化されているからそのように見えている」…みたいな解説は、それだからこそ、むしろ「言葉で言い切ってしまえる世界を信じたらまちがうぞ」といった指摘をするところに徐々に重点が置かれていって然るべきで、本書でも、そのように言っているように読めました。

 もしこの世界が本当に言語だけでできているならば、言語機能だけですべてが完結してしまうはずだろう。ところが実際はそうではない。言語機能自体が何かに依拠し、依存して存在している。

 誤解してもらっては困るのは、言語学言語哲学でいわれるように、あるひとつの語の意味が、他の語や言語全体に依存していると言いたいのではない。言語構造それ自体の全体が、言語構造ではない「何か」に依存してできあがっているのではないか、ということ。われわれの生、われわれが現実世界と思っているものは、その「何か」に根ざしているが、そこに気づかないまま、言語というものを実体とみなして生きている。私たちの認知構造、脳の構造は、言葉を実体として生きていくようにできている。そこにとてつもない矛盾がある。この矛盾が「無明」であるという気がする。

 引用元:本書 p.86

 さてさて、これはよく読むと「ソシュール言語学とは違う」という話で、南さんが言われていることは、「ラング」だけで世界は完結せず、言語の外部に依存している…ということのように読めるのです。つまりここで、仏教はソシュールと違うのではないか?という見方が出てきているわけなのです。しかし、丸山さんの論じられたところからすると、ソシュールは「ラング」だけを考えていたわけではなかったということが、ふと思い出されてきます。ここは誤解を生じやすいところであると思います。上の引用文で南さんが示唆しておられる「何か」というのは、ソシュール自身は重視していたはずなのに語りたがらず、尚且つ、弟子たちには軽視されていたという「パロール」に含まれているのではないか?…といったところにアタリをつけて、その付近を探索してみる価値はあるかもしれません。そのあたりの事情は、栗本慎一郎さんによるこの解説が、(これでも)シンプルで分かり良いと存じますので、引用させていただきます。

 人間がもともと持っている、事物に対する了解を言葉にかえるのは、個人が発話したり、文章記述を行ったりする行為を通じてだが、この行為による言葉をパロールと呼ぶ。共同体の共通了解事項として、ある程度以上体系化されたラングに較べて、パロールは個人的で、不安定、偶発的な要素をたくさん秘めている。

 ソシュールはしかし、このパロールのありかたに、ひどくこだわっていた。そこがもう一つ明確にならないから、彼は一冊も本を書かなかった。彼の弟子たちが講義録をもとに『一般言語学講義』なる本を出版したときも、それについての部分は除かれてしまったのだ。丸山は、『一般言語学講義』の不明確な部分を追究し、ソシュールの原意をとりうるところまで研究を進めた人である。

 パロールとは何かということは、人間はなぜ発話するのか、ということに等しいと私は思う。そこが解決されねば、ソシュールの問題はほんとうに解決されたことにはならない。丸山独自な文化記号学への試みは、生命論を展望に入れて、ここに迫っている。それは、真摯な学者として、当然踏みこむべきステップだと私は思うが、現実にはほとんど誰もやらないのである。

 ソシュールのラング―パロール論は、しかし、日本でもおもにラング論に即して受け入れられた。それが記号論ブームにつながりもした。

 引用元:『鉄の処女栗本慎一郎著(光文社カッパ・サイエンス)pp.228-229


 ダメ押しで、丸山さんがこのあたりをどう語っておられたのかも、かなり難しいですが、一応、引用しておきます。

 著者が、《構成された構造》であるラングに対置して《構成する構造=主体》と呼んだパロールのもつ社会性がこれであって、くり返すまでもなくこのパロールは単なる生理的発声現象や物質音といったシュプスタンスとは違い、一つの構造を有するものである。これは、イディオレクトの概念にも近い、個人の価値観やイデオロギーを支える言語・意識構造にほかならないが、これまた当然のこととして既成のラングという大きな構造の中にくみこまれ、否応なしに規制されている構造でもある。一方においてラングはパロールの産物として成立し、他方においてパロールはラングに規制されるように、この二つは作り作られる永続的な相互依存関係におかれている。このパロールこそは、物質的なものに働きかけて、それをのり超え、しかもそれを保有しながら、具体的実践を行う社会行動の本質であり、歴史や社会の中にあってそれを動的なものにする《否定の契機、反構造的契機》である。(後略)

 引用元:『ソシュールの思想』丸山圭三郎著(岩波書店)p.280

ソシュールの思想

ソシュールの思想

 『ソシュールの思想』あたりではこんなものですが、晩年の丸山さんが、この「パロール」についてもっともっと踏み込んで語り出したことは、そこそこ知られていることであります。いずれ、そのあたりの本についても拙ブログで考えて参ります。


 さて、こうした言語の問題を、南さんは西洋哲学にも触れつつも、あくまで仏教者としての立場で語って下さいます。そういうところで、仏教の凄味を、私は感じずにはおれません。なぜかというと、西洋哲学が言及するはるか昔に、すでに原始仏教がこのような世界観・言語観を持っていたことを、私は知らなかったからです。しかし、ある意味、それは当たり前かもしれません。そもそもだいたいが、日本のごく一般に伝わる仏教が現代の西洋哲学と同じようなものであったと捉えるのは、ほとんど間違いでしょう。南さんは、原始仏典や『正法眼蔵』を理解するのに、仏教書が役に立たなかったので、ハイデガーウィトゲンシュタイン等々の西洋思想を援用しつつ仏教を考えてこられたようであります。


 さてさて、しかしながら、仏教内部でも、こうした議論の中で顕わになってくる「言語体系の外部」とでも言うべきものをどう扱うかについては、ブレがあるようで、そのあたりも、本書から読み取ることができ、大変興味深いです。

 私のソシュール経由の言語観を、本書を通して発展させて捉え直すと、世界を分節し、カテゴリー分けしている言葉の境界線は、普段は閉じていて、いつも暮らしている日常の言語体系が織り成す世界の中に我々は閉じ込められており、我々の「欲望」の大部分でさえ本能によるものではなく、言語に人間が浸潤された結果生じている有り様であるわけです。しかし、時に、その言葉の境界線がこじあけられ、そこが裂け目となって、言語の向こう側の、いわば世界の「潜勢力」のようなものが、ちらっと見えてしまうことがあるということなのでしょうか。

 まあ実際、そういうものは、受け手に準備ができているかどうかにもよりますが、ものすごい芸術であるとか、文学であるとか、学問であるとか、命に関わる局面であるとか、身体を使った深いワークであるとか、異文化交流であるとか…そういったところにおいて垣間見ることができるものだと、私は思います。

 空海は、それを「真言大日如来の言葉)」であると説き、日常言語とは違う「言語」であると言い切った…ということのようです。

 南さんは、「私が強い関心を持つ日本の仏教者は、道元禅師以外では、この空海上人と親鸞聖人だ」と語っておられます。特に空海は、生を肯定することを、とことんごまかさず追求した…と、とりあえずは高評価され、「道元禅師と並ぶくらいの思想性の深さを空海には感じる」とまで言っておられますが、しかしながら、同時に「彼の全面肯定の論理は、私にはどうしてもなじめない」とも言っておられます。

 南さんは、自己肯定というものは、そのまま自己肯定することで示すことはできないとしています。ちょっとややこしいですが、自己否定する行為において、その否定を可能にするためには、その否定を肯定しなくてはならないわけで、その肯定する深い力がその基盤にあるということを反照的に示すことによってしか自己肯定は成り立たない…ということのように私には読めました。

 そういうことになれば、私などが「自己肯定」などと日頃の支援の場面で説くのは、とんでもなく浅薄なものだったということになるわけで、そのあたりのものの考え方をもう一度見直してみる必要を感じるわけですが、一方で、「ところが空海上人は、自己肯定そのものをとりだせると言い、現につかみ出して見せたようなところがある」と、本書にあるわけです。

 では、空海は、なぜ、自己肯定を直接的にすることができたのでしょうか。それは、どうやら、言語体系の外部に「真言」があると言ってしまったことで可能になったことのようです。空海には、言語に対する強い信頼がある…とも言えるようです。

 それに対して空海は、「お前たちが使ってる言語はロゴスの世界、すなわち皮相な世界に過ぎない。その裏に真言、すなわち真のことばがある」と言う。これこそ全面的な存在肯定だ。これは強い。この思想に全面的に納得できたら、どんなによかっただろう。

 引用元:本書 p.69


 さて、道元禅師の門下である南さんは、「外部」は、「わからない」としか言えないと説かれます。

 だいたい言語を超えたものを名指ししてはいけないんだ。「言語を超えたもの」とすら呼んではいけない。そう言った瞬間に、別のものにすりかわってしまうから。
 道元禅師の著作を読んでいると、語りつづけることに対する抵抗感としてしか、語りえないものは現れない」と言っているように思う。
 禅師は「非思量」とか「不思量」ということばを使うが、この「非思量」や「不思量」に何か実体があるわけではない。つぎつぎと直前の「思量」(思い、考え)を否定しながら進んでいくとき、その過程に何ともいえない摩擦感や抵抗感がある。ことばでは言いきれない何かが残っている感覚がある。この無限運動のような否定のくりかえしのなかにしか、ある種の非言語圏は現れてこないのではないか、と思う。いつまでたっても言い切ることができず、それゆえ、いつまでたっても「余り」が出る。
 引用元:本書 p.71

 これは、ウィトゲンシュタインではないですか!

 …いや、私、ウィトゲンシュタインは読んでいないんですけれど(苦笑)、それでも、またしても、仏教の凄味を感じます。

 まあ、別に厳しい修行をしなくとも、一般の人でも、ちょっとセンシティブになれば、自分の思いを「ああいう言い方も違う」「こういう言い方も違う」と、いくら語ってみても語りつくせない感覚が自分に残っていることには、気づくことでしょう。

 しかしながら、この言葉で言いきれない「余り」があるものだという前提で考える仏教者と、そこがよく分かっていない仏教者がおられるようで、そこで大きな誤謬が起きているということのようです。…というか、よく分かっていない人のほうが多いようで、みんなはその「余り」に名前をつけたがるということになってしまうわけです。名前をつけても、それでも、どこまで行っても「余り」は出るわけですが、いつのまにやら、自分は全てを言い尽くしたような気になってしまうところに、大きな誤謬があるということでしょうか。

 やっぱり、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならぬ」のようです。

 本書からすると、ナーガールジュナ(龍樹)も、天台大師智邈も、道元禅師も、親鸞聖人も、この「余り」に気をつけていたことが窺い知れるようなのですが、その後の仏教は、この「余り」を丸め込んで、割り切れるようにしてしまい、ゆえに思想が変質していかざるを得なかったということのようです。

 さらに本書から読み取れるに、この「余り」を名指ししてしまった人が、ある絶対化された真理を手に入れたと言い出し、「自我の肥大化・インフレーション」に陥り、世の中に危険な状態をもたらす場合があるようです。

 そういえば、死後の世界はこうなっている…などと語ってしまう人がいますが、あれは、「語りえないこと」を語り、「余り」を名指ししているわけですね。これは、死んだらどうなるかは、「言語で語れない」「わからない」としなくてはならないはずでしょう。それだったら、キューブラー・ロスさんとか、どんな語り方をしていたのか、確認し直さなければなりませんね…。

 そういうことになると、これは一部の精神世界や新興宗教や学術学会やコミュニティをはじめ、カリスマを頂点に据える形の集団が陥りがちな問題と関わってきそうですが、本書では、特にオウム真理教について、ところどころで言及があります。要するに、「世間」で生きることに困難を感じる者たちが信者となり、日本の仏教の歴史において、かつて道元が掲げていたもののそれ以来はじめての「出家主義」を真っ向から標榜し、しかしながら、なんとも皮肉なことに教団内に自分たちの「世間」を新たに構築してしまうという落とし穴に陥ってしまい、結局「出家主義」とは言えないようなものになってしまった経緯があるわけなのですが、一方で、オウムは、いわば「世間教」にすぎない伝統仏教に対する敵意のようなものから、道元に近いモチベーションでもって新しい独自の言語体系を編み出そうとしていたという見方もできるわけなのです。そこで、あの教祖は、この「余り」について、「真我」という概念を持ち込み、「語り得ないもの」を「究極のもの」として語ってしまったが故に、「語り得ないもの」は別のものに変質してしまい、彼が「自我の肥大化・インフレーション」に陥ってしまったことも相まって、いわば「余り」の部分に逆襲されてしまった・・・という解釈があり得るようです。

 オウムは、日本仏教の一番見たくない部分を見せつけたんだ。

 引用元:本書 p.16

 そういえば、あの教祖もマントラ真言)を唱えるわけですが、それにしても真言宗がそんなに危険な宗教には思えないわけで、この違いは何なのか?という疑問が湧いてきます。「世間教」の枠を守っているからかもしれませんが、私は結局、本書でこのあたりを整理することはできませんでした。

 しかしながら、“癒し”のようなものに傾倒されている方の多くは、自己肯定を自己肯定により直接的に成し遂げようとしている場合がほとんどでしょうけれど、これは、空海が示した「余り」を出さないまま「語りえないもの」を言語化できてしまうといったモデルが根底にないと、成し得ない方略である可能性に、私は本書を通して思い至るわけです。空海は、ここを徹底して考え抜いたようですが、巷に溢れる自己肯定に、空海ほどの深みがあるのか問い直してみる必要はあるかもしれません。少なくとも一部では、気分のようなもので自己肯定して、真実であろうとなかろうと、それでうまくいっているはずだから突き詰める必要もない…という雰囲気があるように思いますが、悪気はなくとも、こうしたものが、自我の肥大化を惹き起こす可能性もないとは言えないわけで、私は今のところそのあたりがよく分かっていないので、もっと思索を深めつつも、少なくとも用心する必要はあるな…と感じるわけです。


 前述の通り、私は、ウィトゲンシュタインを読んでいません。ですから、そういうことについては信用の置けるようなことが言えませんが、ウィトゲンシュタイン的な言語観を、栗本慎一郎さんの著作を通して20年位前に覗いてみたくらいのことはあって、それ以来、そっちの言語観を気にかけてきておりますから、空海よりも、道元に傾倒できそうな気がいたします。かつて、お大師さんの祠が庭にある借家に住んでいたこともあるので、空海にも親しみはありますが、でも、言語体系の外部を「真言」と名前をつけてしまう立場には(あくまで、私個人は)馴染めそうにありません。そういうことで、やっぱりとっくの昔から、すべてを言語で言い尽くすことなんてできないだろうと考えていた私が、ここに来て、本書により、自己肯定により自己肯定をする支援というものを自分が行うことのジレンマに気づいてしまったということがあるわけです。そうした立場の危険性について検討してみる必要を感じさせられました。ものすごい、大変なテーマを授かりました。

(つづく)