『しのびよるネオ階級社会』

新書267しのびよるネオ階級社会 (平凡社新書)

新書267しのびよるネオ階級社会 (平凡社新書)

 日本の行政サイドからのインクルージョン教育への流れは(今現在、ひょっとすると流れは途絶えようとしているかのように思えたりもするのだが)、文部省官僚(当時)の山口薫さんが、イギリスのマンチェスター大学教授(当時)であるピーター・ミットラーさんを通じて学んだことが源流となっているみたいで(『増やされる障害児』宮崎隆太郎pp.74-76)、それなのに、そのイギリスが階級社会だって本当かよ!とブックオフでこの本を見つけて戦慄が走り、購入。著者がたびたび自分の本がすごい本だのなんだのと書いちゃっているので、アマゾンのレビューではその横柄さが反感を買っているようだが、私にはそこらへんはジョークにしか思えないので、そんなところはまったく引っかからなかった。むしろ、この人、自己肯定感が高くていいではないか。自己否定感の裏返しで強がっているようには読めなかったし。

増やされる障害児

増やされる障害児


 イギリスがどんな階級社会なのかは、最初のほうで早速紹介される。

>上流階級
・国王(現在はエリザベス二世女王)
・貴族階級(王室をはじめとする)
・代々の大地主(古くはジェントリーと呼ばれる)


中流階級
・アッパー・ミドルクラス(医師や弁護士といった昔から地位の高い専門家、大企業のエグゼクティブ、成功した芸術家)

・ミドルクラス(高学歴のエリートサラリーマン、キャリア官僚、パイロット、大学教授、中堅以上の自営業者)

・ロウアー・ミドルクラス(一般的なホワイトカラー、下級公務員(公立学校教師を含む)、自営農民、零細自営業者、職人)


>労働者階級=ワーキングクラス(特別な資格やスキルを必要としない仕事に従事している人たち)

 階級というものは資産や収入とは基本的に関係ないのだが、ここのところが分かりにくいかもしれない。日本でも、お昼のメロドラマで、戦時中に主を失い資産をどんどん売却せざるを得なくなって没落していく華族が描写されることがあるが、あれは落ちぶれても華族華族ということなのだな。同様に、イギリスでも貧しい生活をしている貴族が結構いるらしい。

 それで、階級が違うと受けられる教育が違ってくる。とは言っても、違う階級に移ることが全くできないわけではなく、例えばサッチャーやメージャーは労働者階級の出身だったというが、それにしても、労働者階級の子がパブリックスクールに入学しようとすると、入試時に大変な差別に遭い、とても入学しにくい仕組みになっているらしい。ちなみに、パブリックスクールというのは中高一貫の私立校で、イギリスのエリートは大抵ここを卒業している。また、イギリスでは学歴を語る場合、大学より、どこのパブリックスクールを卒業しているかによってその人の階級・学業成績・個性を推測する風潮があるらしい。

 だから、イギリスでは労働者階級の子は労働者階級として生きていくことが、自分の努力とは関係なく生まれながらにしてほぼ決定しているわけだ。労働党が政権を取るたびに、その歴史的な慣習が少しずつ改変されてきたようだが、イギリス社会というのは、今ですら基本的に階級社会であるという。議会制民主主義の国だっていうから、みんな平等な社会なんだと思っていたよ!

 今現在、日本の社会は「アメリカ型の競争社会」になりつつあると憂う人たちが多いようだが、「競争社会」と「階級社会」は全く違うものであるということを著者は繰り返し強調する。「競争社会」は機会の平等が与えられ、かつ、結果の不平等のある社会であるが、階級社会ではそもそも機会の平等すら与えられない。さらに著者は、日本が「競争社会」ではなく「イギリス型の階級社会」になりつつあることを指摘している。とは言っても、そのあたりは今ひとつ論拠に乏しく、また、この本が出版されてから(2005年初版)数年経った現在、若干、状況は変わっているとも思う。しかし、それにしても、日本が階級社会に向かっているというのもひとつのシナリオとしては十分ありうる話だと思って、読んでおくのも良いかもしれない。

 まあ、この話は、私が相当昔に読んだ、栗本慎一郎さんの『大転換の予兆』での、ボーダーレス化が進むと逆にソーシャル・モビリティ(社会的流動性)が確保できなくなるという分析とダブっているので(要するに、社長の子は社長に、自転車屋の子は自転車屋になるしかない社会になる…という話)、私としては『しのびよる〜』で、その状況が憂うべきことに現実化しつつあるらしいことをより具体的に確認したに過ぎなかった。また、これはちょっと用心して読みたい本だが、苫米地英人さんの『洗脳支配』にも、とうの昔から現在に至るまで、すでに日本社会には階層があるのだけれど、一般には知らされないようになっている…という話があり、それを読んでいたので『しのびよる〜』は、それほど真新しい議論ではなかった。しかし、この『しのびよる〜』はより具体的ではある。

大転換の予兆―21世紀を読む

大転換の予兆―21世紀を読む

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて

 イギリスの労働者階級の人たちは、(ここらあたりは非常に言語化しにくい難しい心情があるようなのだが)貧困から抜け出したいとは思っているものの、労働者階級であることに誇りを持っているという。中流階級のやつらを「カッコつけやがって」「あんな気取った人間にはなりたくない」などと嫌っているという。話はちょっと違うが、インドのカースト制度下でゴミ拾いを生業としている人を、大変だろうと思った〈私の知人の)日本人旅行者が手伝おうとしたら、「私の仕事を横取りするな!」と激怒され、どうやら彼らはゴミ拾いといえども自分の仕事や階級に誇りを持っているらしいと感じたという話を聞いたことがある。階級社会に所属する感覚というものはそういうものなのだろうか。

 そういうことからすると、もうピークは過ぎたとは思うが、数年前に日本でも、「貧しくても楽しい生活」「お金より心の豊かさの時代」だのと、そっち方向に扇動する雰囲気があったが、こういう雰囲気こそ、階級社会の成立を支持する人々の意識をいつの間にか形成していくものである可能性があるような気がしないでもない。

 また、実質、日本でも、子どもの将来のステータスが決まってしまう年齢がどんどん低年齢化していることを、私は実感している。そんなもの変わっていないだろう?と思う人は、もうすでに自分の属する階層のことしか見えないように、情報が遮断されているかもしれないので、幼児教育産業付近でフィールドワークのようなことをしてみると、今、自分が暮らしている社会が違うものに見えてくるかもしれない。私は、その昔、荷物配達や水道メーターの検診のアルバイトでかなりの数の地域や家庭を訪問した経験があるので、格差社会だのなんだのと騒がれ出すより遥か昔から日本の社会には階層があることを実感として知っていた。そして、今に至っては、社会的ステータスがそれなりに高くなった方々の一部(大半?)における、幼児期から子どもに幼児教室のハシゴをさせ、幼稚園からエスカレーター式で高校まで進めるような人生を親が子どもに準備する子育てスタイルの確立を、仕事柄、身近なムードとして、しばしば確認している。定員割れしている大学が多くなり、大学進学は難しいことではなくなっているようだから、「受験戦争なんて昔のことなのに、幼児期からこんなに勉強させてどうするの?」と思いきや、一流企業や官庁に就職が可能な出身大学は限られているので、すでに幼児期から受けるべき教育を受けさせないと、安定した職業に就けなくなると一部では考えられているようである。(まあ、10年後、20年後に世の中がどうなっているかは知らないが。それに、幼児期から子どもをそんな目に遭わせて、まっとうな大人に育つかどうかもかなり怪しいのだが。)そういえば、一般の公立学校へ進学するような子どもと自分の子どもを一緒に遊ばせると汚い言葉を覚えて困る…という憂うべき子育て感覚も一部で広まっているようなのだが、それって、“イギリスでは階級により使う英語が違う”という話とダブってくる。


 さて、「機会の平等」とは、即ち、教育を全ての国民が平等に受けることができることを意味するが、そもそもイギリスではそこからして平等ではなく、自分の属する階級により受けられる教育が違う。そんな背景がありながら、イギリスでは「インクルージョン」などと言う学者が現れるとは、一体全体どういうことなのか?国際的にインクルージョン教育の最高指導者とも言われているピーター・ミットラーさんは労働党寄りだとか、イギリス社会の変革を目指しているのだとかいうのなら合点がいくが、このあたりのイギリスの事情を知らずしてインクルージョンを叫ぶのは、なにか真実を見失ってしまう気がする。果たして、健常者ですら「包み込む」なんてことにはほど遠い実態がある国で、健常者や障害者の区別なく包み込む教育を、どうやって行ったというのだろうか?また、インクルージョン教育というものは、イギリスで言えば、どの階級の教育(私立学校?公立学校?)で行われるものなのだろうか?

 そのあたりを視野に入れ、今後、もう数冊イギリス社会についての本を読むか、ミットラーの著作を読むか、考え中。

イギリス人はおかしい―日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔

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イギリス人はかなしい―女ひとりワーキングクラスとして英国で暮らす

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インクルージョン教育への道

インクルージョン教育への道

『アメリカ下層教育現場』

アメリカ下層教育現場 (光文社新書)

アメリカ下層教育現場 (光文社新書)

 前半は、アメリカって体罰は厳禁なのだが、それでも崩壊しきったクラスで授業を成立させ、人生を捨てかけて投げやりになっているチャーター・スクールの高校生たちに生きる希望を与えるに至った、なんと教員養成課程を経ずに教壇に立った元ボクサーのライターの話。しかも、教壇に立った期間は、1年足らず、1日2時間ずつ週2回の『日本文化』の授業だけなのだが、見事にそれなりに子どもと深い関係を築き、子どもを変えてみせている。

 子どもが投げやりになっているのは、人種問題や劣悪な地域や家庭環境に起因することで、著者は子どもと関わりながら、子どもが本当は「希望を持って生きたい」というホンネを持っていることを見抜くに至る。これは、大きい。

 言ってみれば、体罰禁止だけどボクシング精神(なんて言葉あるのかな?)に満ちた『スクール・ウォーズ』みたいなものに、少々アメリカナイズドされた熱いことばかけや、『日本文化』の授業なのにやむなく相撲やボクシングやサッカーで体当たりの実践を続けていく記録というわけなのだが、要するに、これは著者の立場ならば、学校や行政のしがらみに関係なく、自分自身をさらけ出したまま教壇に立つことができ、それ故に生徒に影響を与えることができたのだろうと、私は分析してしまう。「自己との一致」というやつっすね。「自己一致」は教育分野であまり知られていないような気がするが、絶対凄い。まあ、この実践を読めば、分析など、くだらないことだと思うので、分析するのは恥ずかしいのだが。

 授業の教材の選択なども、生徒の興味を引きやすいものを選び、時にはダメ授業をしながらも、なかなかそこら辺は上手にやっていると思う。日本の学校のそんじょそこらの先生の中に入っても授業が上手い部類じゃないか?教員免許って関係ないのかも。(みんな気付いているだろうけど。)特にこういう状況下では、理論やらテク以上に、結局のところ熱意なんだろうけど、いまどきそんな熱いこと言うの月並みすぎるし、カッコ悪いし、科学的じゃないし、と、熱意なんて関係ないよ、ってポーズをとりたいけど、いや、実際やっぱり、熱意って大きいと思う。これ読んでそう思う。だって、この学校、熱意がなくちゃ、子どもは絶対変わらないだろうし。

 それで、後半は、この著者、この非常勤講師の経験を生かしたいと切に熱望、今度は小学生のメンターリングのボランティアを始める話となる。この小学生、すごくかわいらしいのだが、うっかりすると、どこで若くして人生を捨ててしまいたくなっちゃうのか分からない境遇にいる。「これだけでいいの?」っていう地味な活動だが、メンターリングで子どもを支える試みがアメリカで根付きつつあり、それなりに成果を挙げていることがじわじわっと浮き彫りにされる。

 意外に、アメリカ社会というのはルーズなのか(田舎だからか?)、公私混同で、個人情報垂れ流しで(いや、この下りを読むと、日本はやりすぎるくらいやらなきゃいけなくなってるんだなって自覚してくる)、著者がメンターリングで関わっていた子どもが転校した情報を、元担任から聞きだし、さらには、その転校先の中学校まで、取材を口実にその子に会いに行ってしまう。それで、何の問題にもならないという。ま、ちゃんと取材もやって、移民系の英語が母国語でない子どもにしっかりとした中学の学力をつけさせるために(通常、アメリカの中学校は2年制らしいが)3年制の中学校プラス小学校6年生のコースというものが公立学校でできているという話が出てくる。ここの先生がとても熱意ある先生だったみたいで、著者も「メンターリングで関わっていた子どももこれで安心」・・・となる。

 アメリカは日本以上に学歴社会なのだが、人種問題があったり所得格差も日本よりひどかったりするので、子ども時代に投げやりになって勉強なんかしない、ってやっちゃうと、いつのまにか絶望的な将来しか待っていないってことになるらしい。だけど、勉強する必要性を感じていない子どもが多いってこともあるらしい。

 それでも、アメリカに夢を持って移民してくる人は後を絶たず、現実はとんでもない境遇になっても自分の国に帰ろうとする人はあまりいないらしい。それでも、まだマシだということなんだろう。

『トイレにいっていいですか』

トイレにいっていいですか

トイレにいっていいですか

(このレビュー、ネタバレ含む。)

 小学校1年生を読者層としてねらっている感じ。文章も、ところどころ漢字まじりで書いてある。しかし、幼児期にトイレトレーニングがうまくいかない子の気持ちにも通じるものがある話なので、そんな子のお母さんが読むのも良いと思う。特に、発達に遅れがある子の場合、保育園や幼稚園の事情によって(驚くべきことに、これは大問題なわけだが)、かなり苦しいトイレトレーニングになっているケースは時々あるので。

 もうそんなこと忘れてしまっている大人には不思議に思われるかもしれないが、トイレというものは怖いものなのだ。繊細で感受性の強い子どもほど、モロに反応してしまう気がする。ましてや、それまでの一人でする家のトイレと違い、たくさんの子どもが一度に押しかけてする学校や園のトイレに慣れるというのは、実は子どもにとって高いハードルになっている場合もある。この絵本では、そのあたりのことをさりげなく、且つ分かりやすく、且つ優しく、表現してくれていて、なんだかいい感じ。

 結局のところ、休憩時間にトイレに行きそびれ、授業中にトイレに行きたくなっちゃって、その途中の廊下でトランス状態に入り、異界の人(動物)が現れて「みんなで行けば、トイレは楽しいんだよ」と、こりゃ神経言語プログラミングか!?みたいなことをしてくれたおかげで、リフレーミングされちゃった主人公の子どもは、おしっこがしたくもないのに楽しいからということで、みんなを誘ってトイレに行くようになったという結末。ポジティブだなあ。

 まあ、全ての子どもがこの絵本で解決できるわけではないだろうが、集団に入ったところで急速にトイレトレーニングで悩みはじめると、「うちの子を、はやくトイレでおしっことうんちができるようにさせたい」という思いに呑み込まれて、やむなくも子どもに無理させて泥沼に陥っていくお母さんも時々おられる。そういう場合に、少しでも「子どもの事情を分かってあげよう」という視点を持つことができれば、母子の緊張感が緩和し、トイレトレーニングのほうも良い方向に向かい始めることもあるので、そういう場面で役に立ちそうな絵本なのではないだろうか。子どもにとっても、トイレに行く励ましになるかもしれないし、この本を読んで気持ちがうずくことがあれば、そこが解決への入り口になることもあるだろう。

 そういうことで、相談室の棚にこの絵本を並べてみて、実際にトイレトレーニングをポジティブに考えられなくなって深い悩みに陥ってしまっている親子多数にこれまで読み聞かせを試みてきた。不思議なことに、これにはちょっとしたコツがあるのですが、子どもの身体に触れて感情を表出するように誘う技法を使いながらこの本を読むと、トイレトレーニングでつらい思いをしている子はどうしても気持ちが溢れてきて、泣き出してしまいます。泣き出すポイントは子どもによって微妙に違いますが、

・トイレの順番待ちで並んでいたら友だちが割り込んできて、でも、「ずるいぞ」とは言えないシーン
・授業中に我慢できずに、「トイレに行っていいですか」と先生にきいてしまい、みんなに笑われるシーン
・異界の人(動物)がトイレに一緒に行ってくれて「僕たちがついてるから安心してやりな」と言ってくれるシーン
・その問題の、異界の人(動物)がリフレーミングする歌を歌うシーン

・・・あたりはかなりの高率で、子どもの泣きを誘うようです。

 読後、直接的または間接的に、あるいは短期的または長期的に、トイレトレーニングが良い方向に向かいだしたかもしれないケース(はっきりこの本のおかげとは言い切ってはいけないと思うので言いませんが)も、高い割合でありましたが(中には、読後数分して、あまり教えてくれたことがないのに、お母さんに「おしっこ」と教えてくれた子も少なからずありましたが、実際トイレに行くと出なかったり、一回きりだったりでした)、それよりも驚くべきことは、あんなに泣いていたのに、ほぼ間違いなく全ての子が、この絵本のリピーターになったということでした。自発的にこの本を棚から出して、特にリフレーミングの歌のシーンのページを何度も広げて見ていることが、多くの子どもに共通して見られました。私としては、その歌の「がまんを するな こわがるな」というところの歌詞があまり好きではないので、読み聞かせのとき子どもに「これ、キツイよね」と必ずコメントするようにしているのですが(すると子どもは、「キツイよ〜」ともっと泣いちゃうのですが)、リピーターになってからは、子どものほうから私にそのページを見せて「これ、キツイよね」とニコニコ笑いながら同意を求めてくるなんてことも繰り返しありました。

 つまるところ、この絵本でトイレトレーニングに決着つけよう、という構えでなく(トイレトレーニングの常識からしても、そういう構えは禁忌ですよね)、トイレにまつわるどうにもならない気持ちをすでに子どもが抱えてしまっているのなら、その気持ちに触れて、共感しつつ、支えていこうという構えで親子で読むのなら、とても良い感じになるのではないでしょうか。

 ちなみに、読後に「この絵本を購入したい」と、タイトルと出版社をメモして帰られるお母さんも高い割合でおられます。

『フリーズする脳』

フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)

フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)

 脳はボケるようにできているものらしい。加えて、マルチな活動をせずにひとつの仕事に忙殺されたり、生活や仕事を単純化して無駄のない効率の良いものにしてしまったり、パソコンやインターネットのような便利な道具に慣れてしまったり、人と面と向かって会話をしなくなったりなど、現代社会には脳の使い方を偏らせる要因が非常に増えてきているらしい。この本では、主にそのような器質的な問題はないけれども起こってしまうボケ症状(フリーズ)について、解説をしてくれている。

 子育てや発達関係の臨床ばかりしている私としては、久々に高次脳機能の本を読むこととなった・・・とは言っても、この本、専門用語はなるだけ使わず、平易な言葉での説明による一般向けの内容となっている。この本以前に、認知症治療の話には、いまだにレベルの高いエビデンスがあるものは少ないらしいので(意外と言えば意外だし、そりゃそうだと言えばそりゃそうなのだが)、結局のところ、築山氏自身の臨床から得られた知見が多く述べられることになっている。なんだかんだ言ってそりゃそういうもんだろう。

 ボケてきている人に共通する徴候として、目の動きが少なくなることと、話すときに声が小さくなって手振り身振りが少なくなることが挙げられているので、思い当たる人は要注意ですね。

 解決策も症状別にいろいろ述べられているので、ごちゃごちゃになるけどできるだけここでまとめて挙げてみれば、

・パターン化されない前頭葉を使う活動を意識的にすること
・朝起きる時間を固定し、朝は歩くこと
・仕事は昼間にすること(夜は感情系に支配されるので、実はいい仕事ができにくいらしい)
・ラジオを聴くこと
・部屋の片付けをすること
・文章を音読し書き写した後に覚えている単語をできるだけ多く思い出す訓練を行うこと
・パソコン依存を解消するために電源を切ったあとに自分に快刺激を与える行動をするように心がけること(コーヒーを一杯飲むなど)
・思考系が感情系に支配されないようにするため、感情の世話をすること(要するに大脳辺縁系の世話をしろということ)
・感情を抑制する前頭葉の力も高めること
・人生の目標を持つこと

・・・などといったところだろうか。ま、詳しくはめんどうくさいけどボケ防止と思って本を読んでみてください。

 ここではさらに、直接ボケのことではないが、この本を通じて子育て・教育・療育的に私が気付いたことを4点ほど挙げておく。

(1)ボケを誘発するというので築山氏が注意を促している「パターン化したことばかりをして前頭葉を使う活動をしない」「単純化して無駄のない効率の良い環境で仕事を行う」「画面を介した視覚的なコミュニケーションが中心になって、聴覚を活用して話を理解することをしなくなる」「感情系のエネルギーを発散させることができない」「怖い場面から感情系に支配されて逃げてしまい、楽をしてしまう」などというのは、特別支援教育や療育の領域における専門家が「構造化」という概念周辺で、むしろ「やったほうがいい」と推奨していることになっていないか?と、私はふと気付いた。

 誤解なきように、一応述べておくが、構造化されていた方が好ましい場面や状況は、子どもとの生活や活動の中で多々あるものだと私は認識している。しかし、構造化を極端に推し進めることでひょっとしたら生じる弊害について、こうした視点から検討しておくことも必要ではないか?という気がする。ましてや「科学的な態度」を標榜しながらも、そこのところを避けて通るのは、不誠実というものだろう、当然。

 例えば、自閉症者が認知症を合併するようなことについて、どれほどの研究や報告があるのか?情けないことに私にしても、昔そういう話をどこかで読んだような気がしたので、思い当たる本をめくって探してみたが、見つけることができなかった。ウェブで調べてみたところ、唯一、「アスペルガー障害をもちながら認知症になった方々が実は多い」可能性に注目しているというOTさんの存在を知り、今後の研究や実践の展開が楽しみでありました。

 一方で、今日、一般に構造化が受け入れられやすくなっている背景には、「自他の人格を傷つけてはならない」という規範が強固になりつつあるいわゆる心理主義化された社会の中で、便利で効率的な生活をすることを当然のことのように志向するようになった時代の流れや無意識的なムードというものがあることも、私は感じている。こうした志向を、我々は普遍的・絶対的なもののように感じてしまいがちだが、相対化して捉えなおす問題提起や論考も次第に提出されつつある。

 最近、構造化を自閉症児向けだけでなく、「あらゆる子どもにも親切で分かりやすい」ということで、学校教育全般に採り入れてもらうべく啓蒙していこうという機運が一部で生じているようだが、それが子どもの前頭葉の発達に、どの程度の阻害要因としての影響を与え得るのか?と、そこのところも少々気になってくる。何事も、極端はまずい。排他的なまでの極端は特にまずいし暴力的でもある。構造化が(構造化に限らずあらゆる方法論についてもだが)有効な場合も多々あるが、それはあくまで一手段でしかなく、時には手段が目的に取って代わるほどに極端に推し進めていくことで教室の問題を解決しようとすると、それが却って子どもの害毒になることもあり得る。ゆえに、場合によっては、敢えて「構造化しない」という選択をすることがよい結果をもたらすこともあり得ると思う。

(2)「与えられた事務的な仕事ならよくできるのに、アイデアを出して企画をつくるような仕事が全くできない20歳代の女性のケース」(p.155〜158)を読んでいて、これは私がかつて専門家の養成校でよく目にした学生の境遇に似ているのではないか?とぞっとした。なんでも、資料に出ていること以外の発想を生み出すことができないので、企画書が一生懸命やればやるほど資料の丸写しのようになってしまう、というのだ。

 築山氏は、「シンプルできれいな無菌室のような生活を送っていたのでは、組み合わせる情報が枯渇してしまうので、面白いアイデアを出せなくなる」「本業からすると一見無価値なゴミのような情報をたくさん拾っておかないと、いざというときに組み合わせてアイデアとして出すことができなくなる」というようなことを述べている。

 そういうことだとすると、最近の(昔はここまでではなかった・・・どころか「専門領域とは関係ないことをたくさんしろ」と言う先生もおられたのだが)専門家の養成というのは、徹底的な詰め込みで、余計なことをする暇を与えないようなところがあるから、自分で臨床のアイデアを思いつくようなことが苦手になってしまうどころか、文献・資料に忠実なことしかやらない以前に、考えもしなくなって、行政や管理職や先輩が押し付けてくるおかしな方針も、おかしなことに気付かずに、模範生となって教科書どおりやっちゃうなんてことになっているのではないかと。「後々、操作しやすいように、そういう専門家を意図的に養成しているのでは」とまで疑ってしまいそうになるけど、そこまで言うと節度がないし、根拠もないと自覚するので、それは私の戯言に過ぎないが、現実のところ、自律的にものを考える学生を管理しきれず迷惑がる教師や学校というものは間違いなく存在する。恐らく、少なくない臨床現場で、臨床に関して思考停止せずに自分で独自に発想していくことは後ろめたい思いを抱えながら為さなければならない営みとなっているが、しかし、それは「誰がやっても同じにならなきゃいけない」という客観性に依拠する科学が抱える宿命でもあるので、むしろそうでなければならないとも言える。しかし、自分が指示されたことを検証もせずに、不条理だろうと矛盾だらけだろうとそのままやってしまう専門家が増えるというのは、あまり良い事態とは言えない。

(3)築山氏は、感情をコントロールしていく手段を、「大脳辺縁系の世話をすること(感情系のエネルギーの発散、癒し環境に意図的に触れること)」「感情系の問題を思考系の問題に置き換え、解決していくこと」「前頭葉の力を高めること」の3括りにまとめて述べている。

 言い換えれば、「無意識領域内での解決」「無意識領域の問題を意識領域に引き揚げて解決する」「意識でもって欲求を制御する」の3本立てというところか。この手の話は、精神科医や心理系職種や精神世界の人が言うことだったのだが、違う文脈で脳神経外科医がこれを言っているところが、興味深い。

(4)「現代社会では脳の使い方が偏ってしまう」という話は、『友だち地獄』で語られていた、最近の若者から年配層に至る世代までに窺われるという「身体の“いい感じ”に従って行動する」傾向や、「自分の中の変わらない純粋な自己を守る」傾向と重なってくる。

 「見ないように」「感じないように」して、自分の住む世界のリアリティを、(なんと!)現実とは違うところで、自分が見たいように築き上げる作業を、脳のあり方の変化まで伴う形で、無意識に多くの人が行うような流れが、(ひょっとしたらこれは進化として)出現してきているような気がするのだが、果たしてどうなのだろうか?mp3プレーヤーでなにやら聴きながら道を歩いている人を見るたびに、そんなことを考えてしまう。

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

『ちいさなねこ』

ちいさなねこ

ちいさなねこ

(このレビュー、ネタバレ含む。)

 まずは、図書館で読みました。

 冒険する子どもが、危険に遭遇したところへ母親が助けにやってきて、最後は母親のそばで安心・・・というありがちな話を、(絵からして)昭和に生きるネコの寓話として表現。子どもが無意識で反応してくれそう。子どもに安心感を与える意味でも、相談室の本棚にはなかなか良いラインナップになりそう。昭和の香りが漂ってくる絵が繊細なタッチで、絵を見ているだけで、子ネコを両手で抱え上げたときの、あの、胸部や背中のゴツゴツした感触と、腹部のやわらかくてあったかい感触の記憶が自分の手のひらによみがえってきます。写実的で、ネコの躍動感が伝わってくる生き生きとした絵です。こういう感じの絵本を置いておいて、子どもが何気に興味を絵の美しさにも向けてくれると、それもなかなか良いのではないか・・・ということで、購入決定。

 ところが、あんまり、子どもたちは自ら進んでこの本を手にしようとはしません。同じ本棚に並んでいるジブリ関係の本の惹きつけ感に圧倒されているのでしょうか。あれは対象年齢が広く(絵をみているだけの子どもも多いですが)、たいていの子どもを虜にしてしまう登場人物が非凡なキャラ立ちの無敵の本なので、比べられるのも酷というものでしょうか。

となりのトトロ (徳間アニメ絵本)

となりのトトロ (徳間アニメ絵本)

千と千尋の神隠し (徳間アニメ絵本)

千と千尋の神隠し (徳間アニメ絵本)

 年長〜小学生で、『ちいさなねこ』を手にして、ページをめくってみている子どももいますが、それもせいぜい1回きりで(途中で読むのをやめる子もいる)、『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』のような激しいリピーターを獲得するほどの実力は、やはりないようです。もちろんジブリもいいですけど、なんだか残念。

 それでもめげずに、私、「こんないい本もあるんだよ」と、子どもに興味を持ってもらいたくて、2〜3歳くらいの子どもに読み聞かせをしてみることにしました。すると、読み始めは、みんな大して興味ないような素振りをしているけれど、子ネコが犬に追いかけられて、ようやく木に登って逃れるシーンになると、いつの間にか子どもは物語に引き込まれていて、身体を緊張させたり、思わず立ち上がったりして、子ネコに感情移入している様子が窺われることが、多々ありました。その後、お母さんネコが助けにきてくれるシーンで、子どもたちはみんな、“ああ、よかった”と安堵して、物語が終わります。不思議ですが、子どもがストーリーの流れというか、因果関係をはっきり意識レベルで認識していなくても、この反応が起きている可能性があります。これはなかなかいい感じです。従来の考え方で言う「言語理解力」を、相当には持ち合わせていないであろう子どもでも、ちゃんと読み聞かせれば、反応します。心理学(あるいは哲学の方がこの問題を扱う分野としては適切かも)は、未だに「言語を理解する」とはどういうことなのか、明らかにできていない気がします。

 この手の子どもの反応、他の本でもありますよね。『ノンタンおよぐのだいすき』とか。(あっ、これもネコだった!!)

ノンタンおよぐのだいすき (ノンタン あそぼうよ4)

ノンタンおよぐのだいすき (ノンタン あそぼうよ4)

 そういうことで、しかけ絵本からそろそろ物語本へ移行しようという子どもが、無意識に感じているものを、繰り返し繰り返し読んでもらいながら徐々に自分の中で言語化していく体験を、この本を通してできるのではないかと、私はそんな期待をしているわけなのです。

『友だち地獄』(4)

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

(3)のつづき

 なにはともあれ、時々、論理が飛躍する箇所があり、ちょっと用心して読まないといけないところもあるが、この本は大筋において現代の人間関係を理論的にも実践的にも考える上で非常に役に立つ良書であると、私は感じた。

 最近、スーパーで、ずっとケータイでしゃべり続けて一瞬たりとも店員さんに向き合わないままレジを済ませている若い女性を見かけることが複数回あったが、まさに身体の“いい感じ”に従って行動している彼女たちにとっては、スーパーの環境や店員とのわずかなやりとりも純粋な自己を守るために排除したい現実であり、彼女たちにとってのリアリティは今、電話で話している相手から与えられている肯定感の内にあるのだろうか?と想像した。ポータブルmp3プレイヤーの普及というのも、これと関係のある現象のように思える。

 若い人には、内容はどうでもいいから早くメールを返信することが大事だったんだ、とこの本を読んで私は初めて知った。若者の皆様、今までごめんなさい。しかしながら、わざわざそんな流儀に従うのも、私の場合、もういい歳なんだから必要ないだろうか。

 教育や療育の流派が乱立しまくっている昨今、流派によっては(流派ではなく、個人的なレベルでのことかもしれないが)、違う流派の人とも仲良くして、お互いの知見を生かしあおうというムードが形成されない・・・どころか、批判を通して議論を深めようというのならいいのだが、わざわざ排除しあい、抹殺しあう関係を築こうとしているかのようにみえることすら少なからずあって、私的には、ああいうのは気が滅入ってくる。逆に、同じ流派内だと、人によっては、厳しい批判はしにくくなるのか、それとも、なんとか自分の居場所を確保しようとするためなのか、イエスマンになってしまうようなこともあるようだが、あれも「優しい関係」の一環なんだろうか?などとも考えた。

 子どものことも考えてみよう。一般的に(個別にはいろいろあるだろうが)、私が幼児だった頃と比較して、今の幼児たちの方が(「優しい関係」なんだけど)厳しい人間関係にさらされていると言ってしまってよい気がする。昔のことを思い出してみると、私は、幼児期になんとなく遊ぶようになった相手と、「友だちになろう」と意識したことなどなかった。そもそも「友だち」というはっきりした概念を持たないまま、いつのまにか遊ぶ相手ができていた。(あれっ?昔の幼児は、自分の身体が「いい感じ」になるかどうかに従って行動をしていた?もっとも、今だろうと昔だろうと、幼児が自分の行動を言葉で規定してばかりいたら、相当奇妙だと思うけれども。)しかし、今の子どもたちでは、事情が違ってきているようで、「早く友だちを作らないといけない」と追い立てられて、苦しくなっている場合がどうやら少なくないように感じる。(あれあれ?今の幼児は言葉に規定された「善いこと」に従って行動している?幼児に関しては、一見、時代の変遷と逆になっているので不思議な気がするが、考えてみるに、他のことは価値相対でも、「友だちを作る」ということに関しては、いまどきかなりの絶対的で言語化された価値として一般に捉えられている、ということではないだろうか?)“流動的でない特定の固定された「友だち」関係を形成する”という、本書で指摘されている最近の若者の人間関係は、早くも幼児期にその萌芽がみられる。早くしないと手遅れになって、お気に入りの友だちグループに入れなくなってしまうからだろうか?

 さて、そういうことならば、我々は“親が体験したことのない人間関係に、今の子どもたちがさらされている”ことに気付かなくてはならない。今のところ未体験なわけだから、大人は当事者としての解決策を持っていない。(ただし、職場で「優しい関係」をやろうとする新人との関係のとり方に上司や先輩が悩む、という状況は、すでに大人の社会でも起きてきていることのようではある。)だから、例えば「空気が読めない」子を「空気が読める」子にしようと、大人は頑張ってみたりもするが、それは本当の解決策ではないということがあり得る。「空気を読む」子も、結局、それはそれで苦しい。そんなに単純な話ではないのだ。

 この子ども社会の状況は、直接的には大人が解決すべく与えられている問題ではない。今の子どもたちが直接、向き合わされている問題だ。一方で、大人には子どもとは違う問題が与えられているという見方もできる。すなわち、次の時代を担っていく子どもたちが時間をかけて何か次の答えのようなものを見出していく過程で、悩み続け、悩み抜ける意欲をくじけずに維持できるようにするには、大人のどんな子どもの支え方が最善であるのだろうか?という問題である。そこを試行錯誤していくことが、大人のいちばん大事な役割なのではないかと、私は思う。

 さてさて、その他、「優しい関係」をめぐる思索は多岐にわたっていくわけだが・・・。

(おわり)

『友だち地獄』(3)

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

(2)のつづき

 その他、本書では、ブログが果たしている役割や、ネット集団自殺についても、「優しい関係」を軸にした視点からの分析を行っている。私自身、読中・読後と、街中で見かける光景が「優しい関係」で解釈すれば、とても分かりやすい現象に思えてくることがたびたびあり、これはかなり有効な社会を読み解く視点を本書は提出しているのだと感じた。決して著者は「優しい関係」を否定的に論じているのではなく、昔も今も若者には生きづらさというものがあったが、(私がちょっと不適切ながら、こう言ってしまえば分かりやすいと思うので、勝手に便宜的に言ってしまうけれど)生きづらさ解決への弁証法は現在、ここまで進んでいるということを示した本なのだと捉えると良いのであろう。現在の時代背景の中で、若者の感性は「優しい関係」という、とりあえずの解決策を見出すに至っているという話であろう。

 森真一氏の『自己コントロールの檻』にも「優しい関係」への言及があったが、そちらによると、これは「心理主義化」とも関係がある現象のようである。実際、私自身の場合でも、心を扱う仕事をされている同業の一部の方々との間に「優しい関係」を感じることが多々あった。けれども、心理療法もうわべだけのものではなくちゃんとした文献に当たれば、“相手を傷つけない”ということより“思っていることを抑圧せずに言う”ことに重きを置いているのではないか?という気配がしないわけでもない。しかしながら、 決して“やたらめったら言いたい放題にするのが良い”ということでもなくて、“社会的に許されるやり方で表現しなさい”と言っているようでもある。そうなると、その“許される”というのはどこまでなのか?というのが、それこそ「価値相対化」のおかげでケースバイケースになっていて、普遍的な基準がないようにも思われるので、うっかりするとやはり過剰に気を配りすぎて心理主義化が生じてしまい、結局、それにより「優しい関係」も形成されやすくなってしまう気がしないでもない。

 一方で、身体のことやら、純粋な自己ということに関しても、臨床心理学の基礎中の基礎であるロジャーズあたりが言う「自己との一致」というのを思い出してみれば、まだまだ心理学方面での知見を理解しきっていないところで、これらの社会学の分野での議論が行われていることを感じずにはいられない。本書に挙げられていた例というのは、実はまだ純粋な自己というものが見出されるはずもない次元の話で、もっと深いところに純粋な自己というものはあって、それは決して価値相対ではなく、「誰しもが絶対的な境地に達し得る」と言っているようにも聞こえなくもない、ちょっとオカルトっぽい話でもあったはずなのだ。だから本書で採り上げられている、若者たちが「純粋だ」と感じている自己というのは、実はまだ純粋な自己ではない・・・などと言って社会学から心理学を擁護することも、やろうと思えばできそうである。

 また、「自己肯定感」についても本書では、自分の行動や価値観を人に認めてもらうことによって得られるものとして捉えているようだったが、これはロジャーズの文脈でいう「条件付きの肯定」ではないか。そうではなくて、本来的に人間の成長を促すのは「条件付き」ではない、存在自体を肯定してもらう「無条件の肯定的関心」の方である・・・という、臨床心理学を学ぶとよく強調される話がある。

 本書の議論を単純に読むと、「優しい関係」を超えるには、「優しい関係」をいかに止めるか?という思考の道筋があることを思い浮かべてしまうわけだが、逆に、心理学から社会学に向けて、これは「自己との一致」や「無条件の肯定的関心」を極めることで解決できる問題なのだ、という反論が出てきてもおかしくないと思う。社会学による心理学批判は(本書はあからさまに心理学を批判しているわけではないが)、今ひとつ心理学のうわべだけを捉えて論じているような気がしてしまって、私的には、行き過ぎてしまったが故にむしろ生きることを苦しくさせている心理主義化に批判を加えている社会学に期待しているところもあって、とても惜しい気がしてならない。ただ、巷に流布されている自己啓発本的な安易な自己コントロールのハウツーでは、ますますこの若い世代の苦しい人間関係は深刻化する一方なのだろうとも確信する。

(つづく)

【参考】

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)