『フリーズする脳』

フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)

フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)

 脳はボケるようにできているものらしい。加えて、マルチな活動をせずにひとつの仕事に忙殺されたり、生活や仕事を単純化して無駄のない効率の良いものにしてしまったり、パソコンやインターネットのような便利な道具に慣れてしまったり、人と面と向かって会話をしなくなったりなど、現代社会には脳の使い方を偏らせる要因が非常に増えてきているらしい。この本では、主にそのような器質的な問題はないけれども起こってしまうボケ症状(フリーズ)について、解説をしてくれている。

 子育てや発達関係の臨床ばかりしている私としては、久々に高次脳機能の本を読むこととなった・・・とは言っても、この本、専門用語はなるだけ使わず、平易な言葉での説明による一般向けの内容となっている。この本以前に、認知症治療の話には、いまだにレベルの高いエビデンスがあるものは少ないらしいので(意外と言えば意外だし、そりゃそうだと言えばそりゃそうなのだが)、結局のところ、築山氏自身の臨床から得られた知見が多く述べられることになっている。なんだかんだ言ってそりゃそういうもんだろう。

 ボケてきている人に共通する徴候として、目の動きが少なくなることと、話すときに声が小さくなって手振り身振りが少なくなることが挙げられているので、思い当たる人は要注意ですね。

 解決策も症状別にいろいろ述べられているので、ごちゃごちゃになるけどできるだけここでまとめて挙げてみれば、

・パターン化されない前頭葉を使う活動を意識的にすること
・朝起きる時間を固定し、朝は歩くこと
・仕事は昼間にすること(夜は感情系に支配されるので、実はいい仕事ができにくいらしい)
・ラジオを聴くこと
・部屋の片付けをすること
・文章を音読し書き写した後に覚えている単語をできるだけ多く思い出す訓練を行うこと
・パソコン依存を解消するために電源を切ったあとに自分に快刺激を与える行動をするように心がけること(コーヒーを一杯飲むなど)
・思考系が感情系に支配されないようにするため、感情の世話をすること(要するに大脳辺縁系の世話をしろということ)
・感情を抑制する前頭葉の力も高めること
・人生の目標を持つこと

・・・などといったところだろうか。ま、詳しくはめんどうくさいけどボケ防止と思って本を読んでみてください。

 ここではさらに、直接ボケのことではないが、この本を通じて子育て・教育・療育的に私が気付いたことを4点ほど挙げておく。

(1)ボケを誘発するというので築山氏が注意を促している「パターン化したことばかりをして前頭葉を使う活動をしない」「単純化して無駄のない効率の良い環境で仕事を行う」「画面を介した視覚的なコミュニケーションが中心になって、聴覚を活用して話を理解することをしなくなる」「感情系のエネルギーを発散させることができない」「怖い場面から感情系に支配されて逃げてしまい、楽をしてしまう」などというのは、特別支援教育や療育の領域における専門家が「構造化」という概念周辺で、むしろ「やったほうがいい」と推奨していることになっていないか?と、私はふと気付いた。

 誤解なきように、一応述べておくが、構造化されていた方が好ましい場面や状況は、子どもとの生活や活動の中で多々あるものだと私は認識している。しかし、構造化を極端に推し進めることでひょっとしたら生じる弊害について、こうした視点から検討しておくことも必要ではないか?という気がする。ましてや「科学的な態度」を標榜しながらも、そこのところを避けて通るのは、不誠実というものだろう、当然。

 例えば、自閉症者が認知症を合併するようなことについて、どれほどの研究や報告があるのか?情けないことに私にしても、昔そういう話をどこかで読んだような気がしたので、思い当たる本をめくって探してみたが、見つけることができなかった。ウェブで調べてみたところ、唯一、「アスペルガー障害をもちながら認知症になった方々が実は多い」可能性に注目しているというOTさんの存在を知り、今後の研究や実践の展開が楽しみでありました。

 一方で、今日、一般に構造化が受け入れられやすくなっている背景には、「自他の人格を傷つけてはならない」という規範が強固になりつつあるいわゆる心理主義化された社会の中で、便利で効率的な生活をすることを当然のことのように志向するようになった時代の流れや無意識的なムードというものがあることも、私は感じている。こうした志向を、我々は普遍的・絶対的なもののように感じてしまいがちだが、相対化して捉えなおす問題提起や論考も次第に提出されつつある。

 最近、構造化を自閉症児向けだけでなく、「あらゆる子どもにも親切で分かりやすい」ということで、学校教育全般に採り入れてもらうべく啓蒙していこうという機運が一部で生じているようだが、それが子どもの前頭葉の発達に、どの程度の阻害要因としての影響を与え得るのか?と、そこのところも少々気になってくる。何事も、極端はまずい。排他的なまでの極端は特にまずいし暴力的でもある。構造化が(構造化に限らずあらゆる方法論についてもだが)有効な場合も多々あるが、それはあくまで一手段でしかなく、時には手段が目的に取って代わるほどに極端に推し進めていくことで教室の問題を解決しようとすると、それが却って子どもの害毒になることもあり得る。ゆえに、場合によっては、敢えて「構造化しない」という選択をすることがよい結果をもたらすこともあり得ると思う。

(2)「与えられた事務的な仕事ならよくできるのに、アイデアを出して企画をつくるような仕事が全くできない20歳代の女性のケース」(p.155〜158)を読んでいて、これは私がかつて専門家の養成校でよく目にした学生の境遇に似ているのではないか?とぞっとした。なんでも、資料に出ていること以外の発想を生み出すことができないので、企画書が一生懸命やればやるほど資料の丸写しのようになってしまう、というのだ。

 築山氏は、「シンプルできれいな無菌室のような生活を送っていたのでは、組み合わせる情報が枯渇してしまうので、面白いアイデアを出せなくなる」「本業からすると一見無価値なゴミのような情報をたくさん拾っておかないと、いざというときに組み合わせてアイデアとして出すことができなくなる」というようなことを述べている。

 そういうことだとすると、最近の(昔はここまでではなかった・・・どころか「専門領域とは関係ないことをたくさんしろ」と言う先生もおられたのだが)専門家の養成というのは、徹底的な詰め込みで、余計なことをする暇を与えないようなところがあるから、自分で臨床のアイデアを思いつくようなことが苦手になってしまうどころか、文献・資料に忠実なことしかやらない以前に、考えもしなくなって、行政や管理職や先輩が押し付けてくるおかしな方針も、おかしなことに気付かずに、模範生となって教科書どおりやっちゃうなんてことになっているのではないかと。「後々、操作しやすいように、そういう専門家を意図的に養成しているのでは」とまで疑ってしまいそうになるけど、そこまで言うと節度がないし、根拠もないと自覚するので、それは私の戯言に過ぎないが、現実のところ、自律的にものを考える学生を管理しきれず迷惑がる教師や学校というものは間違いなく存在する。恐らく、少なくない臨床現場で、臨床に関して思考停止せずに自分で独自に発想していくことは後ろめたい思いを抱えながら為さなければならない営みとなっているが、しかし、それは「誰がやっても同じにならなきゃいけない」という客観性に依拠する科学が抱える宿命でもあるので、むしろそうでなければならないとも言える。しかし、自分が指示されたことを検証もせずに、不条理だろうと矛盾だらけだろうとそのままやってしまう専門家が増えるというのは、あまり良い事態とは言えない。

(3)築山氏は、感情をコントロールしていく手段を、「大脳辺縁系の世話をすること(感情系のエネルギーの発散、癒し環境に意図的に触れること)」「感情系の問題を思考系の問題に置き換え、解決していくこと」「前頭葉の力を高めること」の3括りにまとめて述べている。

 言い換えれば、「無意識領域内での解決」「無意識領域の問題を意識領域に引き揚げて解決する」「意識でもって欲求を制御する」の3本立てというところか。この手の話は、精神科医や心理系職種や精神世界の人が言うことだったのだが、違う文脈で脳神経外科医がこれを言っているところが、興味深い。

(4)「現代社会では脳の使い方が偏ってしまう」という話は、『友だち地獄』で語られていた、最近の若者から年配層に至る世代までに窺われるという「身体の“いい感じ”に従って行動する」傾向や、「自分の中の変わらない純粋な自己を守る」傾向と重なってくる。

 「見ないように」「感じないように」して、自分の住む世界のリアリティを、(なんと!)現実とは違うところで、自分が見たいように築き上げる作業を、脳のあり方の変化まで伴う形で、無意識に多くの人が行うような流れが、(ひょっとしたらこれは進化として)出現してきているような気がするのだが、果たしてどうなのだろうか?mp3プレーヤーでなにやら聴きながら道を歩いている人を見るたびに、そんなことを考えてしまう。

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)