『アメリカ下層教育現場』

アメリカ下層教育現場 (光文社新書)

アメリカ下層教育現場 (光文社新書)

 前半は、アメリカって体罰は厳禁なのだが、それでも崩壊しきったクラスで授業を成立させ、人生を捨てかけて投げやりになっているチャーター・スクールの高校生たちに生きる希望を与えるに至った、なんと教員養成課程を経ずに教壇に立った元ボクサーのライターの話。しかも、教壇に立った期間は、1年足らず、1日2時間ずつ週2回の『日本文化』の授業だけなのだが、見事にそれなりに子どもと深い関係を築き、子どもを変えてみせている。

 子どもが投げやりになっているのは、人種問題や劣悪な地域や家庭環境に起因することで、著者は子どもと関わりながら、子どもが本当は「希望を持って生きたい」というホンネを持っていることを見抜くに至る。これは、大きい。

 言ってみれば、体罰禁止だけどボクシング精神(なんて言葉あるのかな?)に満ちた『スクール・ウォーズ』みたいなものに、少々アメリカナイズドされた熱いことばかけや、『日本文化』の授業なのにやむなく相撲やボクシングやサッカーで体当たりの実践を続けていく記録というわけなのだが、要するに、これは著者の立場ならば、学校や行政のしがらみに関係なく、自分自身をさらけ出したまま教壇に立つことができ、それ故に生徒に影響を与えることができたのだろうと、私は分析してしまう。「自己との一致」というやつっすね。「自己一致」は教育分野であまり知られていないような気がするが、絶対凄い。まあ、この実践を読めば、分析など、くだらないことだと思うので、分析するのは恥ずかしいのだが。

 授業の教材の選択なども、生徒の興味を引きやすいものを選び、時にはダメ授業をしながらも、なかなかそこら辺は上手にやっていると思う。日本の学校のそんじょそこらの先生の中に入っても授業が上手い部類じゃないか?教員免許って関係ないのかも。(みんな気付いているだろうけど。)特にこういう状況下では、理論やらテク以上に、結局のところ熱意なんだろうけど、いまどきそんな熱いこと言うの月並みすぎるし、カッコ悪いし、科学的じゃないし、と、熱意なんて関係ないよ、ってポーズをとりたいけど、いや、実際やっぱり、熱意って大きいと思う。これ読んでそう思う。だって、この学校、熱意がなくちゃ、子どもは絶対変わらないだろうし。

 それで、後半は、この著者、この非常勤講師の経験を生かしたいと切に熱望、今度は小学生のメンターリングのボランティアを始める話となる。この小学生、すごくかわいらしいのだが、うっかりすると、どこで若くして人生を捨ててしまいたくなっちゃうのか分からない境遇にいる。「これだけでいいの?」っていう地味な活動だが、メンターリングで子どもを支える試みがアメリカで根付きつつあり、それなりに成果を挙げていることがじわじわっと浮き彫りにされる。

 意外に、アメリカ社会というのはルーズなのか(田舎だからか?)、公私混同で、個人情報垂れ流しで(いや、この下りを読むと、日本はやりすぎるくらいやらなきゃいけなくなってるんだなって自覚してくる)、著者がメンターリングで関わっていた子どもが転校した情報を、元担任から聞きだし、さらには、その転校先の中学校まで、取材を口実にその子に会いに行ってしまう。それで、何の問題にもならないという。ま、ちゃんと取材もやって、移民系の英語が母国語でない子どもにしっかりとした中学の学力をつけさせるために(通常、アメリカの中学校は2年制らしいが)3年制の中学校プラス小学校6年生のコースというものが公立学校でできているという話が出てくる。ここの先生がとても熱意ある先生だったみたいで、著者も「メンターリングで関わっていた子どももこれで安心」・・・となる。

 アメリカは日本以上に学歴社会なのだが、人種問題があったり所得格差も日本よりひどかったりするので、子ども時代に投げやりになって勉強なんかしない、ってやっちゃうと、いつのまにか絶望的な将来しか待っていないってことになるらしい。だけど、勉強する必要性を感じていない子どもが多いってこともあるらしい。

 それでも、アメリカに夢を持って移民してくる人は後を絶たず、現実はとんでもない境遇になっても自分の国に帰ろうとする人はあまりいないらしい。それでも、まだマシだということなんだろう。