『友だち地獄』(4)

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

(3)のつづき

 なにはともあれ、時々、論理が飛躍する箇所があり、ちょっと用心して読まないといけないところもあるが、この本は大筋において現代の人間関係を理論的にも実践的にも考える上で非常に役に立つ良書であると、私は感じた。

 最近、スーパーで、ずっとケータイでしゃべり続けて一瞬たりとも店員さんに向き合わないままレジを済ませている若い女性を見かけることが複数回あったが、まさに身体の“いい感じ”に従って行動している彼女たちにとっては、スーパーの環境や店員とのわずかなやりとりも純粋な自己を守るために排除したい現実であり、彼女たちにとってのリアリティは今、電話で話している相手から与えられている肯定感の内にあるのだろうか?と想像した。ポータブルmp3プレイヤーの普及というのも、これと関係のある現象のように思える。

 若い人には、内容はどうでもいいから早くメールを返信することが大事だったんだ、とこの本を読んで私は初めて知った。若者の皆様、今までごめんなさい。しかしながら、わざわざそんな流儀に従うのも、私の場合、もういい歳なんだから必要ないだろうか。

 教育や療育の流派が乱立しまくっている昨今、流派によっては(流派ではなく、個人的なレベルでのことかもしれないが)、違う流派の人とも仲良くして、お互いの知見を生かしあおうというムードが形成されない・・・どころか、批判を通して議論を深めようというのならいいのだが、わざわざ排除しあい、抹殺しあう関係を築こうとしているかのようにみえることすら少なからずあって、私的には、ああいうのは気が滅入ってくる。逆に、同じ流派内だと、人によっては、厳しい批判はしにくくなるのか、それとも、なんとか自分の居場所を確保しようとするためなのか、イエスマンになってしまうようなこともあるようだが、あれも「優しい関係」の一環なんだろうか?などとも考えた。

 子どものことも考えてみよう。一般的に(個別にはいろいろあるだろうが)、私が幼児だった頃と比較して、今の幼児たちの方が(「優しい関係」なんだけど)厳しい人間関係にさらされていると言ってしまってよい気がする。昔のことを思い出してみると、私は、幼児期になんとなく遊ぶようになった相手と、「友だちになろう」と意識したことなどなかった。そもそも「友だち」というはっきりした概念を持たないまま、いつのまにか遊ぶ相手ができていた。(あれっ?昔の幼児は、自分の身体が「いい感じ」になるかどうかに従って行動をしていた?もっとも、今だろうと昔だろうと、幼児が自分の行動を言葉で規定してばかりいたら、相当奇妙だと思うけれども。)しかし、今の子どもたちでは、事情が違ってきているようで、「早く友だちを作らないといけない」と追い立てられて、苦しくなっている場合がどうやら少なくないように感じる。(あれあれ?今の幼児は言葉に規定された「善いこと」に従って行動している?幼児に関しては、一見、時代の変遷と逆になっているので不思議な気がするが、考えてみるに、他のことは価値相対でも、「友だちを作る」ということに関しては、いまどきかなりの絶対的で言語化された価値として一般に捉えられている、ということではないだろうか?)“流動的でない特定の固定された「友だち」関係を形成する”という、本書で指摘されている最近の若者の人間関係は、早くも幼児期にその萌芽がみられる。早くしないと手遅れになって、お気に入りの友だちグループに入れなくなってしまうからだろうか?

 さて、そういうことならば、我々は“親が体験したことのない人間関係に、今の子どもたちがさらされている”ことに気付かなくてはならない。今のところ未体験なわけだから、大人は当事者としての解決策を持っていない。(ただし、職場で「優しい関係」をやろうとする新人との関係のとり方に上司や先輩が悩む、という状況は、すでに大人の社会でも起きてきていることのようではある。)だから、例えば「空気が読めない」子を「空気が読める」子にしようと、大人は頑張ってみたりもするが、それは本当の解決策ではないということがあり得る。「空気を読む」子も、結局、それはそれで苦しい。そんなに単純な話ではないのだ。

 この子ども社会の状況は、直接的には大人が解決すべく与えられている問題ではない。今の子どもたちが直接、向き合わされている問題だ。一方で、大人には子どもとは違う問題が与えられているという見方もできる。すなわち、次の時代を担っていく子どもたちが時間をかけて何か次の答えのようなものを見出していく過程で、悩み続け、悩み抜ける意欲をくじけずに維持できるようにするには、大人のどんな子どもの支え方が最善であるのだろうか?という問題である。そこを試行錯誤していくことが、大人のいちばん大事な役割なのではないかと、私は思う。

 さてさて、その他、「優しい関係」をめぐる思索は多岐にわたっていくわけだが・・・。

(おわり)