『友だち地獄』(3)

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

(2)のつづき

 その他、本書では、ブログが果たしている役割や、ネット集団自殺についても、「優しい関係」を軸にした視点からの分析を行っている。私自身、読中・読後と、街中で見かける光景が「優しい関係」で解釈すれば、とても分かりやすい現象に思えてくることがたびたびあり、これはかなり有効な社会を読み解く視点を本書は提出しているのだと感じた。決して著者は「優しい関係」を否定的に論じているのではなく、昔も今も若者には生きづらさというものがあったが、(私がちょっと不適切ながら、こう言ってしまえば分かりやすいと思うので、勝手に便宜的に言ってしまうけれど)生きづらさ解決への弁証法は現在、ここまで進んでいるということを示した本なのだと捉えると良いのであろう。現在の時代背景の中で、若者の感性は「優しい関係」という、とりあえずの解決策を見出すに至っているという話であろう。

 森真一氏の『自己コントロールの檻』にも「優しい関係」への言及があったが、そちらによると、これは「心理主義化」とも関係がある現象のようである。実際、私自身の場合でも、心を扱う仕事をされている同業の一部の方々との間に「優しい関係」を感じることが多々あった。けれども、心理療法もうわべだけのものではなくちゃんとした文献に当たれば、“相手を傷つけない”ということより“思っていることを抑圧せずに言う”ことに重きを置いているのではないか?という気配がしないわけでもない。しかしながら、 決して“やたらめったら言いたい放題にするのが良い”ということでもなくて、“社会的に許されるやり方で表現しなさい”と言っているようでもある。そうなると、その“許される”というのはどこまでなのか?というのが、それこそ「価値相対化」のおかげでケースバイケースになっていて、普遍的な基準がないようにも思われるので、うっかりするとやはり過剰に気を配りすぎて心理主義化が生じてしまい、結局、それにより「優しい関係」も形成されやすくなってしまう気がしないでもない。

 一方で、身体のことやら、純粋な自己ということに関しても、臨床心理学の基礎中の基礎であるロジャーズあたりが言う「自己との一致」というのを思い出してみれば、まだまだ心理学方面での知見を理解しきっていないところで、これらの社会学の分野での議論が行われていることを感じずにはいられない。本書に挙げられていた例というのは、実はまだ純粋な自己というものが見出されるはずもない次元の話で、もっと深いところに純粋な自己というものはあって、それは決して価値相対ではなく、「誰しもが絶対的な境地に達し得る」と言っているようにも聞こえなくもない、ちょっとオカルトっぽい話でもあったはずなのだ。だから本書で採り上げられている、若者たちが「純粋だ」と感じている自己というのは、実はまだ純粋な自己ではない・・・などと言って社会学から心理学を擁護することも、やろうと思えばできそうである。

 また、「自己肯定感」についても本書では、自分の行動や価値観を人に認めてもらうことによって得られるものとして捉えているようだったが、これはロジャーズの文脈でいう「条件付きの肯定」ではないか。そうではなくて、本来的に人間の成長を促すのは「条件付き」ではない、存在自体を肯定してもらう「無条件の肯定的関心」の方である・・・という、臨床心理学を学ぶとよく強調される話がある。

 本書の議論を単純に読むと、「優しい関係」を超えるには、「優しい関係」をいかに止めるか?という思考の道筋があることを思い浮かべてしまうわけだが、逆に、心理学から社会学に向けて、これは「自己との一致」や「無条件の肯定的関心」を極めることで解決できる問題なのだ、という反論が出てきてもおかしくないと思う。社会学による心理学批判は(本書はあからさまに心理学を批判しているわけではないが)、今ひとつ心理学のうわべだけを捉えて論じているような気がしてしまって、私的には、行き過ぎてしまったが故にむしろ生きることを苦しくさせている心理主義化に批判を加えている社会学に期待しているところもあって、とても惜しい気がしてならない。ただ、巷に流布されている自己啓発本的な安易な自己コントロールのハウツーでは、ますますこの若い世代の苦しい人間関係は深刻化する一方なのだろうとも確信する。

(つづく)

【参考】

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)