『なまけ者のさとり方』

なまけ者のさとり方

なまけ者のさとり方

 誰かに習ったわけではないのだが、ゴラスさんは「宇宙はこうなっていて、ゆえにこう考えて生きればさとりを啓ける」みたいなことがひらめいちゃったわけだ。「暗黙知」っすね。こういうことはある。だけど、それをみんなに教えてしまうのは、思いとどまっていたらしい。というのは、みんながこれを知らないのは、みんなが知りたくないからだろう…と考えていたかららしい。ちょっと読んで、すぐ分かるようなもんでもない…ということもあったらしい。しかし、書いてしまうことにしたらしい。なんだかこの人、自分の人生の文脈の中で、今、これを書かなきゃいけない必然を感じているんだなあ、という“決意”のようなものが行間から滲み出てきていて、淡々と理屈が述べられ続けている本なのに、なぜか筆者の内面に、ドーっと入っていくような感じで読めてしまった。

暗黙知の次元―言語から非言語へ

暗黙知の次元―言語から非言語へ

 筆者の経歴によると、この本は精神世界の方ではかなり知られた本になっているらしい。(批判も多そう。)それにも拘らず、この本の出版後も、ゴラスさんは信奉者の組織やグループを作らないままだったという。

 これは、アマゾンの文庫本の方のレビューの受け売りですが、ゴラスさんはこの本の出版後、ずっと、新刊は出版しないけれど、執筆活動は続けていた…ということらしいです。そしてなんと、後年に『なまけ者のさとり方』の自説を大幅に覆す本を著すに至ったらしく、それは2010年に出版されたようです。和訳はまだされていないようなので、また山川夫妻にご尽力いただきたく、切に希望いたしまする次第でございます。

なまけ者のさとり方 PHP文庫

なまけ者のさとり方 PHP文庫

 そんな訳で、経緯からして、この本、相当に裏がない純粋な志に基づく本であると思われます。

 書かれている言葉は平易なのに、なぜか意味が少々読み取りづらいところがあります。『幸福否定の構造』を読んだときに体験したのと同じく、私の「抵抗」が出てくるのでしょうか。読者のこれまでの人生経験次第で分かったり分からなかったりする感じもあります。『ライフ・レッスン』が、そんな感じだった。まあ、逆に、そういうことなら、何度でも読み返すのに耐えうる本だということでもありましょう。ちなみに120ページ程度の薄い本です。

ライフ・レッスン (角川文庫)

ライフ・レッスン (角川文庫)

 私は、まだ1回しか読んでいないので、まだまだ分かっちゃいないと思うのですが、それでも読後は「なるほど」と、身体もかなり緩みました。前述の通り、後にこの本の説は筆者自身によって大幅に覆されたとは言いますが、ここを基本に、鵜呑みにせず、読者が自分で試して考えていく価値は大いにあると思います。その上で、ゴラスさんの後年の著作が読めるようになれば面白いでしょうね。

 てなことで、ご参考までに、一読後、私にはこう読めたというあたりのことを、以下、まとめて書いてみます。(よって、ゴラスさんの用語とはちょっと違った表現に多少なっていますし、私が間違って読んでいるところも含まれている可能性があります。興味をお持ちになった方は、是非、本書をお読みになることをお薦めいたします。)

 この宇宙の生き物はすべて、拡張と収縮を繰り返している。

 ちなみに、この宇宙に存在するものは全て生命を持っている。原子を作っている粒子だって生命を持っているし、分子や細胞はその集合体なのだ。(ブログ主註:これ、暗黙知理論と言っていることが似ていますね。)

 めいっぱい拡張すると、四方に浸透し、無限に広がり、この宇宙の全てと繋がって一体となったさとりの状態となる。この状態を「スペース」と呼ぶ。

 反対に、めいっぱい収縮すると、ネガティブな感情でいっぱいの状態となる。この状態を「かたまり」と呼ぶ。

 「スペース」は非物質の世界、「かたまり」は物質界でもある。

 さらに、「スペース」と「かたまり」の間で拡張と収縮を繰り返している「エネルギー」と呼ぶ状態がある。我々は個人としてもグループとしても「スペース」「かたまり」「エネルギー」のどれかになっているように見えるわけだが、それは、拡張と収縮の割合がどの程度になっているか?ということと、今、どんなバイブレーション(振動数)を出しているのか?ということによって、決定する。

 バイブレーションが細かくなるほど「スペース」に近づくことになるが、バイブレーションには無数のレベルがあって、それぞれの個人がそれぞれ固有のバイブレーションのレベルでもって、この地上で起こることを見ている。だから、それぞれが自分のバイブレーションに合った体験をすることになる。(ブログ主註:何事も、自分が見て感じているようにしか体験できないからね。)

 しかしながら、我々は誰でも自分が出したいバイブレーションを自分で選択することができる。誰でもなろうと思えば今すぐ、スペースの状態にも、かたまりの状態にもなれる。

 そういうことならば、この宇宙に存在するものは全て平等であるということになる。スペースだろうとかたまりだろうと、バイブレーションがどうであろうと、みんな自分がその状態でいたいからそうしているだけであって、いつでもすぐその気になれば他の状態になることができるわけだから、上も下もないのだ。

 それではなぜ、我々はいますぐスペースになろうとしないのか?それは、要するに、いつでもスペースになれるんだったら、このままこの物質界でゲームの続きを楽しみたいと思うからではないか?我々はみんな、恐怖映画を観たい…のではないか?(ブログ主註:おっ、『幸福否定の構造』っぽい。)

 今の自分がどのバイブレーションのレベルなのかを知るには、この世の中が自分の目にどう映るのかを確かめれば良い。この世が、美しくて安全なところに見えていたら、バイブレーションは細かい。陰気で退屈で危ないところに見えていたら、バイブレーションは粗い。

 自分と違う高さのバイブレーションを持つ人と会うと、不安定で不安な気持ちを感じるようになる。相手のバイブレーションが自分より高くても低くても、不愉快に感じるものなのだ。

 そういう場合、我々は、相手のバイブレーションを引き上げようとして働きかけるか、相手を引きずり下ろしてバイブレーションを低くしようとするかのどちらかになりがちである。

 その場合の対処法もあるのだけれども、ともかくひっくるめて、人生の困難に直面したときは、人から愛されようとするのではなく…


「さからわないこと」
「今のあなたのままで、できる限り愛しなさい」
「あるがままを愛しなさい」
「自分を愛しなさい」


 すなわち、愛されることより、愛することによって、愛を広げていくことが、よりよい方向への変化をもたらす最も早い方法なのである。

 「愛」とは、「他の人と同じスペースにいる」という行為である。まずは、どんなことをしていようと、どんなことを考えていようと、そんな自分を愛し、もしも、愛するという気持ちがどういうものかもわからなければ、それをわからない自分を愛すればよい。そこが、自分が拡張を始める第一歩となる。

 今、自分がさとりの境地と程遠い状態にいるとしても、それはたまたま自分がそこにいるというだけであって、それは何も悪いことではないし、間違ってもいないのだ。でも、今の自分の状態を愛せるようにならないと、今よりスペースに近付くことはできない。

 「地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはもう、天国に住んでいるのです。」

 一方、ある人が病気や狂気、堕落、悩み、絶望等の症状を示しているからといって、それが彼の能力が自分より低い証拠だなどと、思ってはいけない。すべての人やものは、平等な存在なのだ。たまたま彼は、その状態にいるだけなのだ。自分は彼より偉いわけでもなんでもなく、自分は彼と同じなのだ。彼は今の状態から自身で抜け出すことができるし、自身で抜け出すしか方法はない。そもそも、彼はそうしていたいから、その状態でいるのだから、他人が勝手に彼のバイブレーションを変えてしまうわけにはいかない。しかし、彼と対峙しているときは(無理にかかずらあわなくてもいいけれど)、自分が彼を無視することなく、注目し続ければ、それにより彼は安心し、愛されていると感じて、彼が望みさえすれば、そこから抜け出せるようになる。

…とまあ、そんなところです。

 ところで、世界に対して善い行いを実践しようとなさっている方々、例えば、愛に生きる努力を惜しまれることなく、スピリチュアリズムや精神世界に心酔されている方々には、排他的になることを避けようとする志向があるのであろうにもかかわらず、意外にも、私には排他性がどうしても感じられてしまって、不快にならざるを得ない場面に出くわすことがあるのです。あれはいったい、なんなのであろうか?もちろん、全てそうだとは言いません。しかしながら、些細なことで言えば、なんでも、どくろマークのものを身につけている人には、悪霊がついている…などと言って避けたりだとか、うっかり添加物を含んだ食品を人から勧められて、食べることを拒絶するだとか…。大きなことで言えば、ふとした瞬間に自分とは異質な考え方を相手に吐露されたり、善意で勧めた心や身体に良いことを相手から拒否されたりという時に、怒って不機嫌な対応をし始めるとか…。そもそも、宗教ってことになると、多くは、あるところまでは受け入れてくれるが、あるところからは排他的になるものなのだ。結局のところ、背景に、「善悪」という二元論が、確固として居座っていて、まったくそこを相対化しないまま、幸せになろうなどと言っている話が多いような気がして、それじゃダメなんだろう…と、私は理解している。

 まあ、私が、彼らを排除しちゃったら、ここから書くことは、ものすごい矛盾を孕んでしまう。いけない、いけない。

 「悪」と感じられることでも、そうせざるを得ないその訳をとことん知れば、ただ単に「悪」だと切り捨てられないものだ…ということは、人様の悩み事の相談をお受けする仕事をさせていただいているおかげで、私には日に日に実感が深まりつつある。そこで、私という人間が機能できるかどうかは、私がどこまでのことを排除せずに、相手のことを包括し統合できるかにかかっているのだということも分かってきた。まだまだ不完全ながら(正直、まだ、どうしても許せないことはあるんですよ)、努力の方向はそっちだろう…と、認識している。

 他の人はどうなのかは、よく知りませんが、私自身が相談に乗ってもらった経験でお話しすると、私の悩みを聞いてくれた親切な人が、「あなたはこうするべきだ」などと助言をくれても、なにか、自分の事情をこの人は理解し尽くしてくれていない…という感覚が、必ずと言っていいほど、私には残るのです。別に、相談していないのに、私を変えようとしてくる人もいる。ああ、そういうのはweb上で、よく見かけますね。web上なんかで、人の事情が全て理解できるわけがない。それで、事情が分かっていないから、実行不可能な助言や筋違いな助言をしてくる。

 まあ、本書がきっかけとなって、同じようなことで、逆に、私が人様のご相談をお受けする場合の失敗も起きているのではないか?…と、気付いたわけです。

 そんなわけで、いまのところ、私が思うに、助言で有効なのは、根源的には全てを分かることなんて不可能である…と限界を認めつつも、可能な限り相手の事情をとことん分かろうと受容的に努めた上で、

(1)一般論や体験談であることや、場合によっては出典を明らかにした上で「情報提供」を行う。その上でどうするのかの判断は、相手に預ける。場合によっては、その情報を伝えた上で、相手に「どうするのか?」のインタビューを行い、より相手についての事情の理解を深める。

(2)あくまで実行するかどうかは棚に上げて、むしろ拒絶されるところに現れ出てくる更に深い事情を見出すことを目的として、解決策の例を「提案」してみる。

(3)あくまで自分自身で気付きや解決策に至るための「手伝い」としての質問や、悩みと向き合う「方法論」や「枠」としてのワークを提供する。ただし、こちらが楽になるシナリオに相手を誘導したくなる気持ちの存在を自覚し、呑み込まれないように留意する。

(4)否定されたらこだわりなく撤回する覚悟で、洞察された相手の気持ちを言語化してみたり、状況全般の「見立て」を語ってみたりする。

…ぐらいまでではないかと。あと、

(5)相手が自分自身で選択して望んでくるステップに至れば、特定のスキルの伝授を行うのも有り。

 さらに、究極的なところまでいけば、(専門家であろうと)自分と相手は上でも下でもないんだ…という態度を維持することも大事ではないかと。相手が遠慮なくアプローチを拒否できる人間関係をつくっておくことが大前提。なんと言っても、人の悩みの解決策を、私が確定して、実行することを強制したら、私は相手の人生を奪ってしまうことになるのではないのか。そういう人の人生を奪うことを善意で自覚なく生業にしている人が、間違いなくいる。そして、そんな仕事が、間違いなくある。相手は、生きる力を失っていく。最終的には、自分の人生は、自分が切り拓いていかないことには、悩み解決も何もないのだ。

 要するに、ぶっちゃけ、私ができることは、たかが知れている…という気がしている。こんなことを生業にしていることを、嫌悪したりもする。それでも、たいへんありがたいことに、それなりに頼りにされることもあって、私の方が悩んでしまう…まあ、最終的には、悩んでいる私が自分自身で答えをみつけていくしかない…と、思っているわけなのですが。

 (ただし、どうやら、自分のリーダーシップを誰かにとってもらうことを初めから望んでいる方もおられるようなので、こういう場合についても考えておかなくてはいけない気が、最近はしています。)

 そのあたりのことの思索を深めていくために、本書は大変役に立ちました。鵜呑みにすることはないですが、異論が出てくることも含めて、考える触媒には十分なります。よって、教育、療育、親子とのお付き合いをする業務、相談業務、リハビリテーション関係といった方面の方々には、是非是非お薦めの一冊です。恐ろしいことに、これを突き詰めていくと、自分の仕事の意味を疑い始める、途方もない境地に達するので、そうなりたくない方は本気で読まないほうがいいですけれども。(かつて、私が、そうなったわけですけれども。おまけに私の場合、同時期に小沢牧子さんの『「心の専門家」はいらない』も読んでしまったので、足元のぐらつき方が半端じゃなかった(笑)。)

「心の専門家」はいらない (新書y)

「心の専門家」はいらない (新書y)

 それから、『なまけ者のさとり方』は、逆に、上から目線で、いろいろ「お前を変えてやる」と迫ってくる人(専門家とか)が周囲にいて、困っている方が読まれると、非常にふっ切れて良いのではないかと思います。是非是非、お薦めです。むしろ、そういう境遇にいるときに読むと、学ぶことが多いのではないかと思います。

 で、最後にちょっとだけ、後年のゴラスさんによる続編を読まなくても、私が疑問に感じたところを2点ほど。

 1点目。ゴラスさんは、自らのLSD体験で得られた状態がさとりであるという前提で書いているようなので、まあ、それは疑問の余地があるだろうと。「精霊が現れても、恐れずにさからうな」とまでチラッと書いちゃっているのだが、それにしたって、いわゆる禅でいう「魔境」であると思われる。ヨガで得られる体験もさとりの例としてチラッと挙げているが、これにしたって「魔境」かもしれない。

 なので、この本のとおりしていたらさとりが啓ける…と考えるのはマズそうな気がする。本気で仏教を学び始めたら、もっと複雑な理解困難な問題にたくさんぶち当たることでしょうし。とは言っても、この本の考え方で、ずいぶんこだわりがなくなり、楽にはなれるはず。だから、さとれるかどうかということを抜きにしたら、私は支持したくなる。私の知識で言えば、この本のとおりやって、滅多にないことでしょうが、万が一、「魔境」を見てしまったら、「魔境」にこだわらなければよいということになるのだけれど、ものすごく繊細な人は、実践しない方がいいのかな。

 2点目。「自由」と「平等」は両立しない…は、ゲーテだったか?ゴラスさんは、「我々は本来的に平等で、やりようによっては自由になれる」と書いている。ここのところを今の私が語ってしまうのは、身の程知らずですので、要検討ということで。