『友だち地獄』(2)

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

(1)の続き

 とは言うものの、これで万事うまくいくわけではない。若者たちが自分の身体を自己の存在の拠り所としていることは、自分というものは社会経験を経ながら変わりゆくのではなく、自分の中に変わらない純粋な自己が存在していて、それをいかに守っていくのかが大事・・・という新たな自己のあり方を生み出してしまってもいる。ゆえに、「優しい関係」を維持しつつも、その中で本音を語ることなく、いわば偽りの関係を維持し続けることが、自己の純粋性を保ちたい欲求と矛盾を起こすこととなり、若者たちは「優しい関係」の中で息苦しさを感じざるを得なくなっているのだという。

 また、「優しい関係」の中で、相手は自分を否定しない存在となることを求められ、それは即ち自分と相手が限りなく同化することを求めることになる。つまり、相手を同化して取り込んだ自己だけになり、他者は存在しなくなる状況を志向しているのだ。そんな中で、若者たちは生のリアリティを感じられなくなる状況に追い込まれるという。あるいは、価値相対化が進んだ結果、絶対的な欲求というものを個人が持ちにくくなり、また、金銭的に豊かになりあらゆるものが簡単に手に入る状況を現代社会が作り出してしまったことも加わって、かつてほど人生の目標というものを個人が強く持ち続けることができにくくなり、そうしたことも若者たちがこの世にリアリティを感じにくくなる傾向に拍車をかけているという。

 さて、これらの「優しい関係」が出現したことで生じた問題を一時的にでも解決することのできる道具として、ケータイが機能しているという。本来、ケータイはそのような道具ではなかったが、若者たちの感性が、ケータイの持つ自己ナビゲーション的な側面を発展させ、現在のケータイの使われ方が確立されていったのであろう。若者にとってケータイは主にメールで使用されるものとなっているが、ケータイのメールは実に身体性の高いものであるという。ケータイは肌身離さず持っているものであり、ケータイの文面というものは短くて非常に感覚的な言葉を用いることとなる。だから、一般的な話し言葉と異なり、ケータイのメールを受信すると、身体を通して自分の心に直接メッセージが届く感覚があるというのだ。若者にとって、メールの内容は問題ではないという。それよりむしろ、メールを送ってから返信されるまでの時間で、友だちと自分との距離を測っているのだという。人間関係のGPSのようなものだ。また、アドレス帳や受信拒否の機能を使えば、現実の人付き合いよりもはるかに容易に人間関係の取捨選択が可能となる。なんでも最近の若者は、ケータイの番号やメールアドレスの交換を断ることなく、ひとまずは教えあうが、連絡をとりたくない相手の情報はすぐに削除したり、返信を返さないようにしたりするという。そして、メールのやりとりは限られた相手の中から、更にその時の気分に合った相手を選んで、時間や場所を気にせずにメールするという。まさしくケータイは「優しい関係」を維持しつつ、純粋な自己に対する肯定感を高めるためにはぴったりの道具なのだ。また、見たくないものはとことん見ないようにして、そこに純粋な真実の関係があるように錯覚して、その錯覚に没入しやすくもあるので、(たとえ現実ではなくても)リアリティを感じるための機能もケータイは持っているという。

(つづく)