『脱サイコセラピー論』

ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論

ファミリー・コンステレーション創始者バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論

 ふつつかながら、本書について、あれこれ述べさせていただく前に、「ファミリー・コンステレーションについて解説ができるほど、私は分かっておりません」と、きちんとお断りしておくのが筋でありましょう。そもそも、この本で思い知ったことのひとつは、“謙虚になること”ですから。本書以前には、せいぜい、ちょっとコンステレーションしているVTRなぞを観たことがあったくらいのものです。拙エントリーによって、皆様の貴重なお時間を、無駄になされませんように。

 まあ、そんなことを言い出したら、拙ブログでは、いつもそうお断りすべきであり、すでに時折、それに近いことは申し上げて参りました。そしてこれからも、同じように申し上げて参りつつ、また、偉大なる著者の方々への失礼を怖れつつ、私に新たなインスピレーションや視点をもたらしてくれた本について、あくまで一読者である私の現時点での主観に基づき、変化し続ける私自身の世界観のできるだけの毅然たる表現として、述べ続けさせていただく所存でございます。

 こう言ってしまってはなんですが、私は、いつも分かっていないはずです。著者の意図を、読者が完全に分かるなんていうこと、滅多にないだろうと考えております。でも、可能な限り分かろうと努めております。しかし、私は、どこか間違っているでしょう。故に、学び続けています。そして、その学びについての表現を公開で続けていくことを自分に課し、より深くその学びを意識しようとしています。

 故に、取り上げさせていただく本は、例外なくリスペクトしているものに限っています。かと言って、全てが同意できるなんていうことも、(自分の勘違いも含めて)そうそうあることではなく、その点において自分は正直でありたいので、自分の考えとの相違を感じましたら、そこのところも明らかにさせていただいております。さらに、私の視点の特異さが表現できる場合には、分を守れる範囲で積極的に表現してみせるのが、拙ブログを訪れてくださった方々にとって最大限、お役に立てる可能性があるところではないかと認識いたしております。


 さて、ちょっと今回は、念入りに前置きさせていただきましたが、それというのも、本書に関して、私の読めたことなど、相当に浅薄であるに違いないと感じているからです。そういうことに対する怖れがあるので、慎重を期しました。ただここで逆に、この本を読んだからといって、ファミリー・コンステレーションのことは分からない・・・とも言えそうなわけで、この技法自体に興味がおありの方は、私は読んでいないのでこれまたよく分からないんですけれど、ざっと見た感じ、『愛の法則』の方がよさそうです。そもそも、まずは実際にセッションに参加してみなきゃ分からないのでしょうけれども。

愛の法則―親しい関係での絆と均衡 (OEJ Books)

愛の法則―親しい関係での絆と均衡 (OEJ Books)

 私がヘリンガーさんの著作に興味を持った最大の理由は、この技法が「家族」を典型とした「集団」に関わる方法であるからでした。個人の問題を解決しようとして成される支援はめずらしくもなんともありませんし、それはそれで大事な営みでありますが、その個人の問題の多くは、あるひとつのまともに機能していない社会的なシステムの中で、ある個人がすっかりその欠陥部分に嵌り込み、苦しまざるを得ない状況に追い込まれたせいで生じている場合が多いのではないかと、ここ数年、私はそこのところが無視できなくなっておりました。

 ここで、この個人が自分自身の世界の捉え方を変化させて、それまでの自分を受け入れてくれなかったこのシステムになんとか自分を適応させていくことを目指す解決法は、確かにそれはそれでよい場合もありますが、一方で、どう考えても一番変わらなくてはいけないこの社会的なシステムの方をそのままにしてしまう結果も生じさせていることに気付いてくるわけです。よって、ごく稀なことであると信じたいですが、個人を支援することには、うっかりすると、支援者が意識しないうちにこの歪んだシステムを維持する片棒を担ぎつつ、そこで苦しむ人が現れることによって食い扶ちを得るというマッチポンプになってしまう可能性がある・・・という話になってくるでしょう。これは絶対にあってはならないことなので、支援者はこのからくりに敏感になって、これに巻き込まれないように注意を払っておくことが必要であるかもしれません。そして、このマッチポンプに巻き込まれることを阻止するには、そのシステムの変革をもたらすことのできる方法をなんとか見出していく可能性を視野に入れておくことが必須ではないか・・・と、私としては、とりあえずそう考えるに至りました。それで、本書に辿り着きました。


 さて、その『脱サイコセラピー論』っていうのは何なのか?というと、ファミリー・コンステレーションの方法論というより、その背景というか、むしろこの方法が展開されていく中で見えてきたものについて、語られているという感じです。いやいや、紛れもなく良い本で、そんじょそこらの自己啓発本を10冊くらい読むんだったら、これ1冊読んだ方が遥かに良いと思います・・・いきなり読んでも、意味が分からないかもしれませんが。

 それで、以上のような特異な動機に基づき本書を拝読した私にしてみれば、恐らくは突拍子もないことを書くことができそうな感じになってきたので、以下、ファミリー・コンステレーションの核心とは決して申し上げることができないあたりの、些末ではありますが、私的には重要であった気付きについて、述べさせていただきます。


 一点目。『脱サイコセラピー論』を拝読していると、なんだか、ヘリンガーさんは、一応(?)心理臨床家なのでしょうけれども、どうしても私には構造主義者っぽさが感じられてきて仕方ありませんでした。否定しているんじゃありません、だから面白かったと言いたいのです。

 私の印象ですけれども、構造主義者って、世の中がこうなって欲しいとか、こうあって欲しいとかいう「願望」に目をくれず、構造がこうなっているんだから、いくら個人が頑張ってみたところで状況は影響を受けることなくこうなるよ…みたいなことを言ってしまうわけです。時に非常に冷たい分析や予測をしてしまうので、反感買うこともあるみたいです。なんか、本書で質問者が敢えて持ち出してきている(ように私には思えて、この質問者の、ついにはヘリンガーさんをいらだたせちゃったんじゃないかというほどのわからずやぶりが、本書を良いものにしたような気がします)数々のヘリンガーさんへの批判を拝読するにつけ、構造主義っぽさがあるが故に、巷では起こるべくして批判が起きているような気がしてきました。

 そもそも、セッションでクライアントの家族メンバーの代役を立てて会場に布置していくヘリンガーさんの「コンステレーション」という手法が、もうすでに構造主義っぽいわけです。昔はカトリック神父だったそうで、「愛」を強調されるのは、そっちの経歴が関係ありそうだと想像してしまいましたが、一方で「セクシャリティは愛より大きい」などとも仰ってしまうのは、心理臨床家でもなく(でも、フロイト派の人なら同意しちゃうか?)、カトリック神父でもなく、構造主義者っぽい気がしてきます。南アフリカで仕事をされていたこともあるっていいますから、フィールドワークのような体験もされたのではないかと想像してしまいます。

 例えば、昔、別の本で、こんなことを拝読した記憶が蘇ってくるのです。

 とにかく、ためにためた過剰を蕩尽することが人間の行動の基本パターンであり、パンツ(過剰)の着脱に規定される人間と社会のシステムは、ニュ−メディア時代だろうと、変化などしていない、という理論を私は展開している。これに対して、『構造と力』(勁草書房)を読むと、浅田彰少年は、現代において過剰は日常の諸行為で小出しに処理(蕩尽)されるから問題ではなく、人間はことの最初からピュシス(秩序)を捨てきってしまって、カオス(混沌)に浮遊している動物だから、強固なシステムなんかもうないんだぜ、と言っている。これはもう完全に百八十度違う対立なのに、うちのゼミの学生に聞いたりすると、「両方読んでわかりました」なんて言っている。

 なんだ。なぜ両方わかっちまうんだ?

 おかしいではないか。

 なにせ私は教授で浅田は助手だから、ことをあまり荒だてるとまずいが、浅田は、はっきりまちがっているではないか。システムはそれほど簡単なものではない。浅田彰現象は、彼が有能であるからこそ生み出されたものだが、そのこともまた、容易にシステムによる消費の対象となってしまったではないか。そもそも、システムがきついから逃げられるものなら逃げ出したいというのは、万人の心の底の願望なのである。

 (中略)

 私たち人間は、表層の社会システムからも、深層の生命的な潮流(たとえばDNA)によっても支配されている、一種の機械人形である、という疑いが濃い。(中略)

 ということであれば、思想家こそ、もっとも機械人形性の強い人間だということになる。そこを突破する唯一の道は、思想家が自分たちのその特徴と限界をつねに意識し、自分が語りだしていることが世の中で受けたりしている結果について、つねに反復的な自省を行うかどうかにかかっている。つまり、自分が誰かに「言わされている」のではないかという「恐れ」である。神が与えたシステムは、そこまで強いものに思われる。だから、そのシステムから軽く逃げきれるならこんな楽なことはないが、それは嘘なのである。


 引用元:『鉄の処女』 栗本慎一郎著(光文社カッパ・サイエンス) p.31〜33

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

 栗本さんもヘリンガーさんも、両方読んだという方は、この世にそんなに存在しない気がしますが、ここに引用した文が、1980年代に書かれたものであると、『脱サイコセラピー論』を読まれた方が知ったら、驚いてくれるでしょうか?セラピーとしての方法論を築き上げるのとは次元が違いますが、この引用文と同じものがヘリンガーさんにもあることを、私は感じてしまうわけです。

 本書で、ヘリンガーさんは、繰り返し、(人間が作り出した秩序とは別のレベルで存在するという)魂の秩序や運命というものを受け入れることの重要性を強調され、一方で、質問者からは、繰り返し、これまでの心理臨床において、そうした秩序や運命からは自由になっていいんだよと、人々に説いてきたことが、(敢えて)反論として語られ、そのお互いの立場の共通点や相違点を明らかにしていくことが行われているわけですが、これはまさに構造主義ポスト構造主義の対立を見ているような気がするわけです。まあ、心理臨床の世界では、ポスト構造主義みたいなのが先だったわけですが、ヘリンガーさんがそこでポスト構造主義に「そんなわけねーだろー」とやるわけはないでしょうけれど(他流派を批判するということにはまったく関心がないようなので)、やっちゃっていると考えれば、理解しやすい気がします。


 さて、二点目。ファミリー・コンステレーションでは、生きている人であれ、死んでしまった人であれ、家族のメンバーで排除されている人はいないかどうかに注目することがよくあるようですが(それが一番重要なのかな?)、そこのところで、また別分野でそういったことに言及しておられる方の存在に気付きました。将棋棋士米長邦雄さんです。そもそも、将棋って、いつも将棋盤の上で駒をコンステレーションしているわけですが(笑)、それで発想も似てくるんでしょうか、よく分かりませんが。

 家庭の空気が円い、夫婦仲がよいということがひじょうに大事で、これが勝負や子どもの将来を決めることになると、いたるところで力説していたら、相談を持ちかけられた。四十歳くらいの女性からである。

 「あの、主人というのは大切なものなのでしょうか」
 「もちろんです」

 それ以外に答えはないのだが、聞けばご主人を交通事故で失い、息子を女手一つで育てているのだが、この頃、息子の素行がよくないのだと言う。

 「やっぱり、母一人子一人ではダメなんでしょうか」
 「全然、そんなことありませんよ」
 「でも、先生は父親がちゃんとしていなければダメだ、女親では―――と、おっしゃっているじゃないですか」

 たしかにいろいろなところで、そう書いたり、しゃべったりはしている。しかし、人というのは、物理的に生存している人間だけが「生きている」のではない。死んでからでも、誰かが覚えていれば、その人はまだ「生きている」のだ。

 (中略)

 「それじゃ、もう一つだけ聞かせてください。あなたは、そのお化粧具合から察するに、恋をしていますね」
 「まじめな教育問題で先生のところにお伺いしているんです。茶化さないでください」

 私には茶化すつもりなど毛頭ないのであって、これは問題解決の重要なポイントなのだ。

 「これは大事なことなんです。あなたは今、恋をしていますね」
 「……ええ、まあ、いろいろと事情がございます」
 「そうですか。お好きな方がいらっしゃる。もうこれ以上、立ち入ったことはお聞きしません。それじゃあ、どうしたらいいかを簡単にお話します。毎朝、あなたがご飯の支度をして、出来上がった頃になると息子さんが起きてきて、ご飯を食べて、学校に行くんだろうと思うんですが、明日からは、息子さんが起き上がった頃を見計らって、仏壇の前に正座してチーンとやって手を合わせる。それから、めぐってくる毎月の命日には陰膳を、鯛の刺身でも、目刺しの焼いたのでも何でもいい、とにかくもう一膳、陰膳をテーブルの上に置いてください。そうすれば、息子さんは、きっとこう言います。『今日はだれかお客さんがくるの?』。あなたは、『これはお父さんに召し上がっていただくの』と答える。これを毎月一回続けてください。息子さんは必ず、近いうちにクラス一番になります」

 (中略)

 子どもは、理由もなくグレるのではない。何か家の中に理由があるのだ。
 「うちのお袋は、もう親父のことなんか完全に忘れているんだろうなあ。あの男と、どうもできてるんじゃないか」
 この未亡人のケースなら、原因は十中八、九、これだろう。

 (中略)

 「あのう、今、お付き合いしている男性とは、どのようにしたらよろしいんでしょうか」

 (中略)

 「朝チーンとやって、その後ろ姿を見せることが教育なんです。息子さんが学校へ行ったら、もう関係ありません。息子さんが家を出たら、口紅を引いて外へ出なさい。人生は楽しまなければいけません」
 「ありがとうございます。先生は人生相談の神さまです!」

 勝利の女神は、家の空気を見ているのであって、興信所のような素行調査はしないのである。


 引用元:『運を育てる』 米長邦雄著(クレスト社) p.192〜198

運を育てる―肝心なのは負けたあと

運を育てる―肝心なのは負けたあと

運を育てる―肝心なのは負けたあと (ノン・ポシェット)

運を育てる―肝心なのは負けたあと (ノン・ポシェット)

 米長邦雄さんは、プロ棋士の世界で勝負に勝つためには、相手も自分に負けないくらい勉強してきているのだから、最後の最後は、勝ち負けが運に左右されるところが大きいということで、運の研究を始められたようです。それで、その研究というのが、結構、ヘリンガーさんが“現象学的な心理療法”を通じて魂の秩序を見出してこられた、その手法と重なって、私には感じられるのです。それで、米長さんのこの引用文のケース、残念ながら、この息子さんがどうなったかは、書かれていないのですが、ファミリー・コンステレーションに詳しい方が読まれると、どうお考えになるか、非常に興味があります。

 この米長さんの助言というのが、伝統的な風習に基づいていることが、また面白いところです。そういうところに、構造主義との結びつきを感じるし、ヘリンガーさんとの結びつきも感じます。


 さてさて、そこで、三点目。強引さを承知の上で申しますが、“運命を受け入れる”という文脈で、ヘリンガーさんと岡本太郎さんとの有意義な比較が可能であるということに、私は気付いてしまいました。突拍子もない話ですが、しかしながら、考えてみれば、岡本太郎さんは若い時分にパリ大学の学生として、構造主義に影響を与えたとされるマルセル・モースに師事したといいますから、捉え方としては、それほど外れてはいないはず・・・と、私はここで言ってみたいわけです。ちなみに、ヘリンガーさんはドイツ人なんですけれどね。岡本太郎さんは、恐らくヘリンガーさんの仰るところの相当な「魂の強さ」を持った方であると私は感じますが、岡本太郎さんの考える運命というものと、ヘリンガーさんの考える運命というものは、全く違うもののようで(そもそも定義自体が違うんでしょうけれど)、実は似ているような気もするのです。

 例えば、次のような岡本太郎さんの言説が、ヘリンガーさんの仰るところの「運命の力動に服従する」ということの具体的な意味を考える参考になるのではないでしょうか。ついでに、ヘリンガーさんが「秩序を破壊する」と考えておられるらしい「優越感」についても関連している言説なのではないでしょうか。

 自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。

 ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘いつづけることなんだ。

 自分が頭が悪かろうが、面がまずかろうが、財産がなかろうが、それが自分なのだ。それは“絶対”なんだ。

 実力がない?けっこうだ。チャンスがなければ、それもけっこう。うまくいかないときは、素直に悲しむより方法がないじゃないか。

 そもそも自分と他を比べるから、自信などというものが問題になってくるのだ。わが人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ。

 自信に満ちて見えるといわれるけど、ぼく自身は自分を始終、落ちこましているんだ。徹底的に自分を追いつめ、自信をもちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。

 つまり、ぼくがわざと自分を落ちこませている姿が、他人に自信に満ちているように見えるのかもしれない。

 ぼくはいつでも最低の悪条件に自分をつき落とす。そうすると逆にモリモリッとふるいたつ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのがぼくの主義。

 いつも言っているように、最大の敵は自分なんだ。


 引用元:『自分の中に毒を持て』 岡本太郎著(青春出版社プレイブックス) p.59〜60

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか

 ここまでのところで、ヘリンガーさんは、「構造」はかなり強固なものであると仰っており、これを変革することを薦めないどころか、むしろ「逆らうな」と仰っている・・・ということでよいのでしょうけれども、言ってみれば、そういう絶望的な見方を提示しておきながらも、それを前提としたワークが可能であるという話にもすぐさまなっていて、端的に言えば、この構造を可視化し、服従することを促すことで、クライアントの人生に画期的な何かが起きてくる・・・という方法論の整理ができてしまうわけです。ここでふと、これは構造を取り扱いつつも、結局のところ、構造の変革は無駄であるとして、むしろ個人に対して構造を受け入れられるような変革を迫っているわけなので、要するに、構造主義的でありながら、心理主義化からは逃れ得ていないという、ややこしい様相が見えてきているように思われてくるわけです。ま、もっとも、心理主義化など問題にしておられないと思います。

 これに対して、岡本太郎さんについては、「構造」を受け入れた上で、これに挑み、そこで引き裂かれることにより自分の存在理由を見出し、「爆発」する生き方を、説くだけでなく自ら実践しておられた・・・と、整理できるでしょう。引用文でも「自他に挑む」と書かれていますが、岡本太郎さんは、ヘリンガーさんと違い、社会(日本では「世間」と言うべきでしょうが)にも挑んでおられたわけです。パリでは、ジョルジュ・バタイユの秘密結社に入会されていて、バタイユから影響を受けたという話は有名ですが、帰国前にそのバタイユが「権力の意志」に陥っている・・・と批判し、決別しておられるという、そこのところで、反社会のカルト組織内部に生ずる「世間」(フランスで「世間」という言葉を使うのはおかしいかもしれませんが)に対してまでとことん「ノン」を突き付ける姿勢を崩さないわけであります。誠に僭越ながら、この感性はすごいです。さらには、「太陽の塔」に至っても、あれは「世間」に対して挑んでいるわけです。そして、自分が社会(「世間」)に対して「ノン」を突き付け、そのせいで自分も社会(「世間」)から「ノン」を突き付け返される・・・そこのところで引き裂かれてしまうことを通じて、たしかに生きている自分の存在を肯定するに至るという、まあ言ってみれば「正反合」の「合」のない反ヘーゲルをされていたわけです。反ヘーゲル、いいではないですか!これは「心理主義化」とは一味も二味も違います。

 ・・・と、勢いよく書いてみたものの、そういえば、ヘリンガーさんも、現象学的な見方をしている関係で、反ヘーゲルだったことを思い出してしまいました。本書のpp.56-58に触れられていますが、それによると、どうやらヘリンガーさんは「正反合」の「反」に慎重な見方をされているという話のようです。なんでも、「反」によりすべての事柄が相対化の危険に晒されるのは避けたいようで、「反」は「反」でも、「正」を壊す「反」はダメで、「新しい気付き」のような「反」は破壊的でなく、「知」を深めるので良い・・・という話のようですが、まあ、どちらかと言えば全て相対化しろとは思わないけれども、限界まで相対化するべきだと思っている私としては、皮肉にもヘリンガーさんから「正」を壊す「反」を突き付けられた格好になっており(爆)、追々思索を深めて参りたいところであります。あ、ここで思索を深めて「合」に至っちゃったら、ヘーゲルだ!なんと、私は癒されません・・・コンステレーションした方が良いのでしょうか?(笑)本当のことを言うと、「爆発」する方に魅力を感じるわけですが。まあ、とりあえず、これはそのあたりで、またしても岡本太郎さんとヘリンガーさんとの違いを認めることができたわけで、やはり、この二人を比較してみることの有意義さを確信できた次第であります。


 ヘリンガーさんと、構造主義と、米長邦雄さんと、岡本太郎さん。こういう結び付け方をするなんて、きっとおかしな解釈ですが、そう受け取ってしまうのが私のあるがままですから、そう受け取ってください。聞くところによると、人間って、未知のものに遭うと、既に自分が知っているものをあてはめて理解しようとするらしいので、そういうことで言えば、私の解釈はあるがままじゃないかもしれません。そのあたりも含めて、さらに勉強させていただきます。

 ともかく、本書を読破した時点で、拙エントリーの導入あたりで述べた臨床家のマッチポンプの私の問題意識がどうなったかというと、やみくもに逆らってみても却って混乱するのみで、まずは構造や魂の秩序や運命に逆らわず、それを受け入れるところからスタートしなくてはならない・・・という教訓には完全に合意するわけです。いや、しかし、これではそこを受け入れるところから生じてくる超常現象のような・・・というか、いわゆる「外部」の力を期待しなくては、常に集団や社会は変革し得ないという話になってしまうわけで、まあ、それは、なんとなく自分の過去にもそれに近い現象が起きたと認められることもあったような気がしないでもないし、当然そういうものなのかもしれないという気がしつつも、残念ながら、心理主義化マッチポンプの拡大を恐れる未熟者の私には、早急に納得して、この方法論を絶対的に定式化できるようになる話でもないわけです。ただ、ヘリンガーさんのように、「外部」の力が働くところまでやれば、マッチポンプを脱することができるのかもしれない・・・という気もするわけで、恐らく、一般の方の多くは心理主義化しているから、仮にヘリンガーさんと岡本太郎さんの二択を迫られたら(どっちもきついから、どっちも選択しない人が一番多いでしょうけれど)、「爆発」して生きるよりも、ファミリー・コンステレーションを選ぶ人が多いのだろうな、と想像します。しかしながら、私としてはやっぱり心理主義化をどう考えるか?という問題は無視できないです。そのまま「個」のあり方を極めれば、「外部」の力が働き世間に変革がおきる・・・などということを信じて心理主義化を肯定してしまう道もあるのだけれども、もし、こうしたものに賭ける気がせず、あるいは、こうした生き方がイヤだということで、心理主義化を避けようと考えるのならば、岡本太郎さんの「対極主義」のようなものを学んで、「爆発」して生きていく選択もあるということになるでしょう。

 ・・・ということで、いまのところ、2つほど選択肢ができたわけですが、まだ今後も悩み続けて参ります。


 最後に、今の私に生きる、最も勉強になったところを、本書より引用させていただきます。「運命に服従する」という立場からすると、「セラピスト」という言葉に違和感を感じるはず・・・ということですね。

 私にとって重要なのは、人が葛藤を解消すること、そしてその家族内にある癒しを促す力とのつながりを取り戻す手助けをすることです。これは単にセラピーという枠組みには納まらない、和解への奉仕でもありますから、この意味において私は私自身を魂のケアテーカーであると思っています。私はまた、自分自身を教師であるとも考えています。セラピストという言葉は、私にはあまり意味のない言葉です。

 (中略)

 私にとって「セラピスト」という言葉は「何かを起こす」―――物事を扱いながらそれを自分の支配下に置く、というイメージを連想させます。私の理解では、運命とそれに作用する力はあまりに偉大なので、私がそれに介入し、目的を達成することはイメージできません。

 (中略)

 ・・・本質を言いましょう。私は不当に排除されていたものとつながり、彼らを家族の図の中に戻します。回復や癒しは彼ら自身の中から起こるのです。私からではありません。私はまた、システムを侵害し苦しめる者や、自分の思い込みから秩序を壊して癒しを妨害する者の対極の位置に立ちます。それ以上何もしません。

 仮にセラピストという言葉を使うならば、ファミリー・セラピストというのが最も近いかもしれません。私は家族のシステムが秩序を見つけ、道を見つける手助けをしますから。


 引用元:『脱サイコセラピー論』 バート・ヘリンガー著 西澤起代訳(メディアート出版) p.130〜131

 なんだか、故・山本七平さんの言われた「水=通常性」や「状況倫理」を思い出します。もっとも、山本さんは、「状況倫理」から自由になる道があることを示され、また、「状況倫理」の元は「空気」であるとも論じておられるわけですが、ヘリンガーさんは、魂の次元のことを仰っているので、そんなせいぜい心やら認識レベルの醸成物では捉えられない、もっと深い話をされているのでしょう。しかし、心理臨床というものは、ひょっとしたら、意外にも、「空気」や「水」の問題を扱っているだけの可能性も有り得るので、万が一、山本さんが通用することもあるかもしれません。そういえば、山本さんもヘリンガーさんと同じく、キリスト教と関わりのあった人であるのですけれど、そのあたりにも、なにかあるのでしょうか?

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))